ぼくのせかい
たまらない。なんという暴虐、なんという蹂躙。達臣とそれ以外の人間との差が今ここにはっきりと形になった。
残りの男達、女達に目を向ける。こちらを見るそれらの目に宿っているのは紛れもない怯え、恐怖。畏怖と言い換えてもいい。
(そうだよ。いつもそんな目で俺を見てたらよかったんだ)
そうしたら死なずに済んだかも知れないのに。
でも、もう駄目だ。手遅れだよ、お前ら。
※ 橘 鏡花
足がすくむ。腕が震えて力が入らない。歯がガチガチとなるばかりで口を動かすことすらろくに出来ない。
何なんだ。一体何なんだ、これは。
どうしてこんなことになった。誰のせいでこうなった。
(わた、し……?)
考えてしまって、ますます体が動かなくなる。
きっかけを作ったのは自分だ、と気付く。最初のうち、達臣は他人を煽って酷いことをさせてはいたが、自身は大人しくそれを静観しているだけだった。この阿鼻叫喚の絵図を作り上げるきっかけとなったのは鏡花の放った矢に他ならない。
なんとか顔を上げて眼前の光景を目に焼き付ける。悲鳴、助けを求める声、そして達臣の気が狂ったような笑い声。達臣が腕を振るうたびに誰かがはじけ飛んで、光の粒となって消えていく。
「や、やめ……て……」
やっとのことで喉の奥から押し出してきた声は、それでも達臣に届くはずもなく。場を支配する狂気に虚しくかき消される。
「やめてよ、タツ……」
タツ。泣き虫でいつも鏡花のあとをついて回っていたタツ。幼かったあの頃の姿と今暴虐の限りを尽くしている男の姿が重ならない。本当にあれはタツなのだろうか。一体どこでおかしくなってしまったのだろう。
どこで。鏡花の胸にいつかの光景がよぎる。あの日、鏡花が達臣を拒絶したから? だから達臣はおかしくなった? 全ては鏡花の責任? でもそんなの――
「だれ、か」
重い。一人で背負うには重すぎる。
響き渡る達臣の狂気に満ちた笑い声。見れば、残っているのはもう祐樹と七海だけになっている。七海は他の女達と同じく縮こまって震えているだけで逃げようともしていない。祐樹はそれをかばうように立ってはいるが、その足はやはりがくがくと震えている。
助けなくては。そう思うのに体が動いてくれない。今こそ、今こそ矢を放たないといけないのに。何かが鏡花の背中にのしかかって動けなくしている。
「誰か、助けて――」
口にする。誰にも届かないはずの声で。
でも。
まるでそれを聞き届けたかのように。
「楽しそうだなあ、鈴川」
第二の闖入者が、現れた。
※ 蒼士 悠馬
悠馬は頭の後ろをぽりぽりとかいた。
「そのうちこういうことをする奴が出てくるって分かってたんだけどなあ。それは多分お前だろうってことも」
達臣は動きを止めて悠馬を見ている。悠馬は口調を変えずに言葉を続けた。
「あいつの言うとおり、暢気に本なんて読んでる場合じゃなかった。こうなったのは俺の責任だな」
やれやれといった様子で悠馬はその場に腰を下ろす。達臣は何も言わない。黙って悠馬の動向を観察している。
「鈴川。何故殺した?」
「あ?」
話しかけられてようやく達臣は口を開く。
「消えてしまった奴らだよ。なんで殺した?」
詰問というよりも単なる興味のような口調で悠馬は言う。達臣は「ハッ」と鼻で笑った。
「別に。ただうっとおしかっただけだ」
呆れたようにため息をついて悠馬は首を横に振る。
「救いようがないな」
悠馬は腰のホルダーから一本のナイフを引き抜いた。達臣は注意深く身構える。それとほぼ同時に。
「悪いけど、死んでくれ」
悠馬は引き抜いたナイフを地面に突き刺した。一瞬だけ間があって。
達臣の首が、虚空に跳ね上がった。
※ 藤井 義人
たどり着いてみたら、想像を絶する光景がそこに広がっていた。
放心したようにしゃがみこんでいる橘鏡花と。ガタガタと震えている白石祐樹と早瀬七海と。場違いに落ち着いて座っている蒼士悠馬と。そして、首から上を失った誰かの死体。
一体なにがあったのだろう。ここにはもっとたくさん人が居るはずだったのにみんなどこへ行った?
そして、首のない死体。あそこで死んでいるのは一体誰だ? いや、それよりも――誰があれをやった?
「なんで鈴川の死体だけ消滅しない?」
誰もが動こうとしない中、悠馬だけが口を開く。鈴川の死体。すると、殺されたのは鈴川達臣なのだろうか。
悠馬が立ち上がった瞬間、義人の手を握る沙雪の手にぎゅっと力が入るのが分かった。義人もそっと握り返す。大丈夫、沙雪ちゃんは必ず僕が守るから。
幸い悠馬は義人たちのほうへは来ず、まずは死体のところへ歩いていった。なにやら注意深く死体を観察してから、無造作に転がる誰かの首にも目を向ける。義人の目にその行動は異常者のそれとしか映らない。人を殺してあの死体を作り上げたのは悠馬なのだろうか?
祐樹と七海のほうに悠馬が目を向けた時、義人は思わず身構えた。もし悠馬があの二人に危害を加える気なら止めに入らないといけない。
が、それもまた取り越し苦労に終わる。悠馬はすぐ視線をよそへ向け、今度は鏡花のほうへ近付いていった。
分からない。状況からして誰か――さっきの台詞からすると恐らく鈴川達臣なのだろう――を殺したのは悠馬に違いないというのに、なんだか今の悠馬からは悪意というものが感じられない。止めに入るべきなのかどうか判断に迷う。
「義人くん、心配しないで」
ふいに沙雪が言った。
「多分だけど、蒼士くんは鏡花ちゃんに酷いことをしたりしないよ」
何故だ? 何故そんなことが言える? 思わずそう問い詰めたくなった。
さっきから沙雪はよく分からないことばかりを言っている。そもそもここへだってどうやってたどり着いたのか。一度は迷ったはずなのに――いや、そもそもその「迷った」というのだって何故分かったのか。
沙雪のことが信じられなくなったらおしまいだと分かってはいる。そして今はそんなことを気にしている場合ではないとも。でも義人の中でその疑問は沙雪への疑念へと変わりつつあるのもまた事実で。なんだかもうどうしていいのかさっぱり分からない。
悠馬は鏡花のところへ行って、膝をついて鏡花の顔を覗き込んだ。どうするつもりなのだろう。本当に沙雪の言ったとおりになるのだろうか?
「大丈夫か?」
労わるような声が聞こえた。少なくとも義人の耳には純粋に鏡花を心配しているようにしか聞こえない。
鏡花は返事をしない。でもぼんやりと悠馬を見返してはいるようだ。
「すまん。もっと早く来るべきだった」
悠馬が重ねて言うと鏡花はようやく反応らしい反応を見せた。
「わ、わたし……」
ぽん、という感じで悠馬は鏡花の頭に手をのせる。
「考えすぎるな。お前のせいじゃない」
劇的だった。どうやらその言葉が鏡花にかけられた魔法を解く鍵だったらしい。息を呑んで口元をおさえた鏡花の瞳から、やがてぽろぽろと涙がこぼれ始めた。
やがてしゃくりあげるように声を上げて、子供のように泣き始める鏡花。ちょっと意外な光景だ。いつもしゃんとしている鏡花があんなふうになるなんて。
沙雪が義人と繋いでいた手をそっと離した。