この手に君のぬくもりを
「え。も、もう?」
驚いたのと同時に少しほっとしてしまう。本来言うべき「もうちょっとゆっくりしていけばいいのに」というセリフも出てこない。
「それじゃ、また学校で。斉藤くんもまたね」
「あ、ああ」
あっけにとられた新太の返事が聞こえたのかどうか。聡子は足早に部屋を出て行く。バタンと玄関のドアが閉まる音が聞こえて聡子の気配が外に消えたとき、ようやく男二人は大きく息を吐いた。
「あー、やばいやばい。血を見るかと思った。わりいな透、何もフォローできなくて」
「いや、それはいいんだけど。それにしても高峰さん、なんであんなに怒ってたんだ?」
言ったとたんにサヤが目を丸くして、新太は「お前がそんなだから……」と恨みがましい視線を向けてくる。
「え。僕、何か変なこと言った――ん?」
少しおどおどとしながら新太のほうを向いた透の視界が、部屋の隅で置きっぱなしになっているあるものをとらえた。
「なあ。それって高峰さんの鞄じゃ?」
「え?」と新太もうしろを見て「ほんとだ」と言ったのと、ほぼ同時。いきなり玄関のドアが勢いよく開いて、ドドドドと荒々しい足音がこちらへ近付いてきた。
開けっ放しだった透の部屋のドア。そこで立ち止まったその足音の主はまず視線をぐるりと回して室内を検索。目標物を見つけるや否や中に押し入ってきてそれを引っ掴み、まるで何事もなかったかのようにぴゅうと走り去っていった。
しばらく、誰も何も言わなかった。気まずい沈黙が部屋を支配するなか、やはりそれを破るのは空気の読めない透の役目である。
「なあ、もしかして高峰さんって意外と天然?」
新太とサヤは曖昧な笑みを浮かべるだけで何も言わなかった。
その後はしばらく三人で話して、やがて外が暗くなり始めたころに「じゃあ俺も帰るわ」と言って腰を上げた。サヤに言われて、透がマンションの外まで送ることになる。
「そういやさ。すっかり忘れてたけど、お前の相談を聞いてやるってのがはじめの趣旨だったんだっけ」
五階の通路を歩いてエレベーターに乗ったあたりで、ふと新太が言った。
「ほんとだな。僕もすっかり忘れてた。んで、どう思う?」
新太は「うーん」とあごに指をあてて考えたあと、
「ま、いいんじゃね? すんげえリアルな恋愛シュミレーションゲームだと思って楽しんでみたら?」
「……ゲーム、ねえ」
どうもその言い方には抵抗がある。たしかに端的に言えばそんなものなのかもしれないが、透の感情はそうは言っていない。サヤがあまりにも「人間らしく」ありすぎるせいだろうか。
なんとも微妙な気持ちになっていた透の横、エレベーターの壁にもたれかかった新太は何故だかしきりに首をひねっている。「どうしたんだ?」と言ってみると新太はまた「うーん」と唸って、
「いやさあ。あのサヤって子の顔、どっかで見たことある気がするんだよなあ」
少し驚いた。何故って、その感覚は昨日の透が感じたのと同じものだったから。
一階についたエレベーターから降りながら「実は僕もそう思ったんだ」と言うと、新太は「そうなの?」と意外そうな顔をした。
「どっかのアイドルをモデルにしてるとか?」
とりあえずありそうな可能性を透は口にしてみたが、なんとなく違うような気がした。何故なら――
「いや、でもあんなかわいい子がテレビに出てたらもっと印象に残ってるはずなんだけどなあ」
新太がまさに透の考えを代弁してくれた。
そう、そうなのだ。あんな、自分の好みを豪速ストレートで射抜いているようなアイドルが居たら一発で透はファンになっていたはずだ。それをファンになるどころか忘れてしまうだなんて、健全な男子高校生であるところの自分にはあり得ないことだと思う。
「ま、そんなのはどうでもいいやな。とにかく頑張れよ。これからお前、いろいろ大変そうだけど」
「……完全に他人事だな」
「だって実際俺は何の関係もないしー」と無責任に言う新太の頭を小突いて、そこで透は足を止めた。「んじゃ」と軽く手を振り合って新太と別れ、再びマンションの中へ。
部屋に戻った透はまず集音マイクを取り外してイヤホンマイクを元通りにセットした。別にわざわざ元に戻す必要はなかったわけだが、やはりこっちの方が落ち着く。
「ごめんな、勝手に人を連れてきちゃって。びっくりしただろ?」
念のためもう一度謝っておく。なんだかよく分からないことになってしまったので、さすがのサヤも少しは怒っているかもしれない。
「いえ、さっきも言いましたけど私は別にいいんです。いいんですけど……」
サヤは少し言いよどんでから「あの、変なこと訊いていいですか?」と言ってきた。なんだろう、と思いつつ透は頷いてみせる。
「あの……さっきの高峰さんって、透さんの彼女……とかじゃ、ありませんよね?」
「へっ?」
思わず声が裏返ってしまった。
「彼女って、高峰さんが? ち、違うよ。なんでそんなことになるの? あの子は単なるクラスメイト。確かにクラスの女子の中ではよく話したりするほうだけど、別にそんなんじゃないって」
何故こんなに焦っているのか自分でも分からないまま弁明する。そう、これは弁明だ。透に自覚はないが、傍から聞いていればまさしく恋人に浮気を疑われた男の弁明そのものである。
「『なんで』って透さん、さっきもそんなこと言ってましたよね。ホントに分からないんですか? あの高峰さんの態度を見て何も気付かないんですか?」
少しだけ言葉を失った。
実を言えば、さすがにあれだけのことがあったのだから「もしかしたら」ぐらいには透も思っている。でも透にとってそれはあくまで「もしかしたら」の話であり、空想の域からは出ない世迷言である。
「いや、君の言いたいことは分かるけどさ。それはないって。だって高峰さんだよ? ああいや、サヤは今日が初対面なんだから知ってるワケないけど、とにかくもしそんなコトなんだったら隠したりしないで真正面からぶつかってくるような子なんだって」
透が言うとサヤはなんとも複雑な顔をしたが、やがてうっすらと微笑んだ。
「ちょっと高峰さんがかわいそうだけど、私としては安心しました」
それからサヤはちょっと頬を染めて、甘えるような上目遣いで「ねえ透さん。昨日言ったこと、ウソじゃありませんからね?」と言った。その時に透が出来たことと言えば、せいぜいわざとらしく目を逸らしながら「う、うん、分かってる」と口走るくらいのことだった。
夜遅くになって母が帰ってきたが、サヤのことを訊いてみても何も答えてくれなかった。「疲れてるんだ。今度にしろ」と相手にもしてくれない。
何故何の変哲もない高校生である自分がモニターなんてやっているのか。そもそも彼女は何を目的として作られたのか。サヤ関してはまだ分からないことだらけだが、結局のところ今の透にとって重要なのは一つだけ。「何故会ったばかりの自分のことを好きだなんて言うのか」である。
作品名:この手に君のぬくもりを 作家名:terry26