この手に君のぬくもりを
透はさらに沙耶に近付いた。白い頬、毛布の下で呼吸と共に上下する胸元。一見するとただ眠っているようにしか見えない中で、右腕に突き刺さった点滴の針だけが異質だ。思わずそれを引き抜いてしまいたい衝動にかられたが、そんなことをすればどうなるのか、それを考えられる程度には透も冷静だった。
その代わり、透は毛布からはみ出していた沙耶の右手にそっと触れた。はじめはおずおずと片手の指先から、やがて両手で包み込むように。
細い。柔らかい。様々な言葉が透の中を過ぎ去っていく。どれもこれも無粋に思えた。この感触を言い表す言葉なんて、きっとこの世には存在していないのだ。
沙耶の手。たぶん普通に生活している人のものよりも少し冷たい。それでも確かにそこには温もりがあった。現実に存在する一人の女の子として、今ここにある。
何故だろう。涙が出た。
嬉しいのか。悲しいのか。
幸せなのか。不幸なのか。
頭の中がぐちゃぐちゃで何も分からない。ただ手に触れるだけでこんな気持ちになるなんて思いもしなかった。
ただ手に触れるだけ。唐突に、どくん、と透の鼓動が跳ね上がった。
そうだ。自分が望んでいたのはそれだけではない。
誰も居ない病室。手を握っても反応しない沙耶。きっと彼女は透が何をしようとも目を覚ましはしない。そう、何をしようとも――
「……うそだろ。何を考えてるんだ、僕は」
よろよろと、逃げるように透は後ずさる。自分の考えが信じられない。恐怖すら覚える。まさかこんな状態の沙耶にそんな衝動を感じてしまうなんて。
自分がものすごく汚らわしく思えて、これ以上ここに居たら沙耶まで汚してしまいそうで。透はもう沙耶に近付くことはせず、そのまま病室から出た。
「おや、もういいのかい?」
ドアの横に立っていた母の意外そうな声が聞こえた。涙のあとを見られなくなくて、透は振り向かずに答える。
「僕、もうここに来ないほうがいいかもしれない」
母の返事を待たずに、透は一人で病院をあとにした。
その夜。
透は昨日と同じように電源の入っていないパソコンをじっと眺めていた。
サヤとは昨日のことがあって以来会話をしていない。ただでさえ顔を合わすのがためらわれるのに、それに加えて今日の出来事だ。何を話せばいいのだろう。サヤは一体何を望んでいるのだろうか。
思考はぐるぐると同じところを回り続けていて、それなのに透の指はひとりでに動いてパソコンの電源を入れる。サヤの顔を見たい、その衝動に逆らうことなんて今の透には出来なかった。サヤの顔を見ずに過ごすなんて、きっともう一日だって耐えられない。
「おかえりなさい、透さん」
いつも通りの声が聞こえた。無理をしているのかもしれないが、少なくとも透には完全にいつも通りの声だとしか思えなかった。
「あの、昨日のことですけど――」
「いいんだ」
サヤの言葉を途中でさえぎる。
「僕なら気にしてない。えっと……ごめん、高峰さんとはまだちゃんと話ができていないんだけど……」
そう。聡子とは今日も学校で顔を合わせたのだが、昨日の今日で何を言っていいのか分からなくて結局声をかけられなかった。いけないことだと分かってはいるが、話しかけようとするとどうしてもためらいや後ろめたさが勝ってしまう。
「私のほうこそ、いいんです。私のことなんて気にしないで、透さんは現実の人と――」
「サヤ」
そんなセリフをサヤの口から聞きたくなくて、透はまた彼女の言葉を途中でさえぎった。
「実はさ。今日、母さんのところに行ってきたんだ。母さんの勤めてる病院にね」
「母さん……桜井先生の勤めてる、病院……そっか」
ふっとサヤの顔に理解の色が広がった。病院に行った透が何を見て何を聞かされたのか、もう予想がついたのだろう。それでもサヤは敢えて訊き返す。
「何をしに、ですか?」
「うん。サヤのことで話があるって――」
透は言った。サヤの正体について聞かされたこと。はじめは信じられなくて、でも信じるしかなかったこと。話を聞き終わったあとで沙耶の手に触れたこと。その時に涙を流したこと、そして感じたあのあさましい衝動だけは秘密にしておいて、あとは全部包み隠さず話した。
ふっくらとした口元に諦めにも似た表情を浮かべて、サヤは黙って透の話を聞いていた。単に「もう秘密にしておくことはできない」と思っているのか、それとも知られた以上は透の側には居られないと思っているのか。もし後者だとしたら早くその間違いをただしてあげないといけない。透はだんだんと早口になりながらやっとのことで話し終えた。
「あーあ、バレちゃったか」
サヤが口にした一言目がこれだった。まさしく言葉どおりの、ため息のまじった諦めの声。
「もうちょっと秘密にしておきたかったんだけどなあ。どうしてそんな簡単に話しちゃうかなあ、桜井先生」
何故サヤがわざわざ「人工知能だ」なんて嘘までついて本当のことを隠しておきたかったのか、透にはよく分からない。でも自分達の関係が節目を迎えていることだけは確かだ。お互い、はっきりしておかなくてはいけないことがある。
「えっと……御辻さん、って呼んだほうがいいのかな?」
透が言うと、とたんにサヤはひどく悲しそうな顔をした。
「やだ。いつもみたいに『サヤ』って呼んでください。今さら名字で呼ばれるなんて、そんなの寂しすぎますよ」
「そっか。ごめん、サヤ」
透が言い直すと、サヤはホッとしたような笑みを浮かべた。
「それでさ。実は僕、サヤが作り物の人工知能なんかじゃないって分かって嬉しかったんだ。現実の沙耶は何も言ってくれなかったけど、それでもいいって思った」
サヤはまるで全てを受け入れてくれるような優しい顔をして話をじっと聞いている。透は言葉を続けた。
「僕、ずっと思ってた。サヤの気持ちは作り物なんじゃないかって。単にはじめに見た人を好きになるようにプログラムされてただけなんじゃないかって。だからそうじゃないってはっきり分かって嬉しかった。でも――」
そう。でも、だ。サヤの想いが作り物ではないとなると、そこに一つの疑問が生まれる。
「なあ。中学校のとき、僕とサヤって一緒のクラスになったことないだろ? 同じ学年なんだからきっとすれ違ったことくらいはあるんだろうけど……ごめん。正直僕は覚えてなかった。だから、その――」
「どうして私が透さんのことを好きになったか、ですか?」
先回りしてサヤが言った。透は右の人差し指で頬をぽりぽりとかいた。
「そうなんだ。できれば教えてくれないかな?」
透が言うとサヤも同じように少し照れたような顔をして、
「いいですけど……あの、笑いませんか?」
サヤ特有の上目遣いで透を見てくる。意識してやっているわけではなくて、きっと照れたときのくせなのだろう。こればっかりはどうしても慣れない。
なんとか透がうなずいて見せると、サヤは照れた顔のままぽつぽつと語りだした。
「えっと。中学校のとき、私って引っ込み思案で……あんまし友達とかできなくて、休み時間とか放課後はいつも図書館にこもりっきりだったんです」
「あれ、そうなの?」
作品名:この手に君のぬくもりを 作家名:terry26