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「ナイフ」

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 なんだかちょっと仕返しができたみたいでいい気分になりながら、手早く着替えを済ませる。こんな時間から街に出るなら選ぶのはもちろんスケートの出来る格好だ。柔らかめのジーンズとタンクトップを身につけ、その上からナイロンパーカーを羽織る。あとはスケートボードを腕に抱えれば準備完了。所要時間、一分未満。
「なにそれ。そんなの持っていってどうするつもりなの」
 振り返って一言目にエミーが口にしたのがこれ。ちなみに「そんなの」というのは俺が持っているボードのことだ。
「どうするって、乗る以外に何の使い道があるってんだよ。これも案内の一環だと思ってくれ」
 そう言ってもまだエミーは納得のいかない顔をしていたが、とりあえず街の案内を開始。最初に彼女が希望したのは「お菓子がおいしいお店」だった。時間も時間だから、朝食と昼食をいっぺんに済ませてしまおうという魂胆らしい。
 お菓子がおいしいお店。一つ知っているところがあるにはあるが、エミーを連れて行くのは正直あまり気が進まない。別に店がどうこうではなしに、場所が悪いのだ。
 けどまあ、ここは諦めるしかなさそうだ。他に知っている店なんてないし、適当に選んでもしまずかったりしたらまたエミーの機嫌が悪くなってしまう。
 出かけるとき、家主の婆さんに何か言われるかと思ったが、どうやら今日は居ないらしい。管理人室には人影がなく、やかましい声も聞こえてはこない。ラッキーだ。幸先のいいスタート。
 アパートからまっすぐに歩いて大通りへ。駅前でたむろしている顔見知りに一旦ボードを預けてからいつもの商店街に入り、二、三分ほど歩いたら目的のカフェテラスに着く。
 今日は平日だしティータイムからも外れているので店はすいていた。出来るだけ隅っこの席を選んで腰を下ろすと、すぐにキャスケット帽をかぶった若い男の店員が注文をとりにくる。俺はコーヒーとクロックムッシュを二つ、エミーは散々に悩んだ挙句エクレアとクロカンブッシュを一個ずつ、あとレモンティーを注文した。ここはキャッシュオン制。その場でそれぞれ自分の分をその場で支払って、しばらく待っていると注文した品が運ばれてくる。
 思っていたよりも大きかったらしく、皿に乗ったお菓子を見てエミーは小さく歓声を上げた。手掴みで口に運んで、また喜びの声。どうやら彼女の好みにマッチしていたらしい。
 喜んでくれて何よりだが、俺としてはどうもさっきから視線を感じるような気がして落ち着かない。視線の出所は道の反対側から。そちらばかり気にしているのが顔に出ていたのか、食事の途中でエミーに言われた。
「ねえ、さっきからどうしてちらちらあっちを見てるの? あのパン屋がどうかした?」
 そう。このカフェテラスの唯一にして最大の欠点。それは俺がいつも行っているあのおっさんのパン屋の向かい側にあるということ。俺一人で来る分には別にいいのだが、こうやって女連れで来ようものなら後で何を言われるか分かったモンじゃない。
 かいつまんで事情を説明すると、エミーのやつはにんまりと笑ってこんなことを言いやがった。
「そういえばあのパン、おいしかったよね。後であのパン屋にも行ってみましょうか。そのおじさんにも挨拶しなきゃ」
 ああ、言わなければよかった。後悔すれど、時すでに遅し。
 それなりのボリュームがあるエクレアとクロカンブッシュをぺろりと平らげて、エミーは元気よく立ち上がる。どうやら彼女は思い立ったらすぐに実行しないと気がすまないタチらしく、そのままパン屋へ直行。俺が止めるヒマもなく店のドアを開けた。
「いらっしゃ――ああ、なんだてめえの連れか」
 エミーを見て店主らしい台詞を言いかけたおっさんが、俺の姿を認めた瞬間にころりと態度を変える。誰にでも横柄なのかと今の今まで思っていたが、さすがにそうではなかったらしい。俺は特別扱いされているみたいだ。もちろん悪い意味で。
「初めまして、おじさま。エミリエンヌ・マティスといいます。エミーって呼んでくださいね」
 誰だお前。思わずツッコミを入れそうになってしまった。まるで上等なクラブの風俗嬢みたいな猫かぶり。昨日出会って以来初めて見るような顔で可憐に微笑むエミーを見ていると、なんだか相当堂に入っているように思う。男慣れはしていないくせにこういうのだけは得意なようだ。
「お、おじ……ああ。ゆっくりしていってくれ」
 おじさま、なんて上品な呼ばれ方をしたのは初めてなのだろう。おっさんはろくに手入れもしていないヒゲ面を赤くしてやがる。正直言って気色悪い。ゆっくりしていってくれ、なんていう台詞も初めて聞いた。
「おじさまのパン、おいしいですね。私あんなの初めて食べました。あんなパンを作るんだから、きっと素敵な方なんだろうなあって思ってたんです」
 よくもまあ、すらすらと口が回るものだ。昨日はそんなこと一言も言ってなかったのに。
「そ、そうかい……ん? お嬢ちゃん、俺のパンを食ったって……まさかそいつの家でかい?」
 うわ、最悪。人前で猫を被るのは勝手だが、俺まで巻き込まないでほしい。なんで俺がおっさんに睨まれないといけないんだ。てゆーかおっさん、俺がどうしようとあんたには関係ないだろう。
「や、やだ。おじさまのエッチ。そんなこと聞かないで下さいよぉ」
 エミーはまるで恥らう乙女のように頬を手で覆っている。なんて芸が細かいんだ。しかも誤解を解くつもりが全くない。あれはきっと確信犯だ。わざと話をややこしくして、心の中で笑ってやがる。間違いない。
 結局その後もエミーはこんな調子でおっさんと話して、最後にはなんとパンを特別価格で買い叩いてしまった。表示された金額の半分以下だ。甘ったるい声で「ねえお願い」と連呼されて、とうとうこのおっさんも篭絡されてしまった。
「分かった、俺の負けだ」とおっさんが言った瞬間、エミーは大げさなほどの歓声を上げておっさんの首元に抱きついた。その時のおっさんの表情といったら。しばらくは忘れられそうにない。
 店を出るとき、おっさんはいきなり後ろから俺の首根っこをつかんで「あの子を泣かしたら承知しねえぞ」とか言ってきた。勘弁してくれ。あんたがエミーにいかれちまうのは勝手だけど、勝手に俺を巻き込むな。
「俺、ちょっとお前が怖くなったよ」
 店を出たところで、そんな台詞がぽろりと口からこぼれ出た。
「怖いってなによ、怖いって。生きるための知恵と言ってほしいわね」
 しれっと言う。生きるため、とかかなり大げさだ。身につけている物とかを見ていると、こいつ結構な金持ちのお嬢様である感じがするのだけど。あ、でも「ずっと一人だった」とか言っていたからそうでもないのかな。
「それにしても。うーん、何だろう。あのおじさん、なんでか知らないけど初めて会った気がしないのよね」
 しきりに首をひねりながら、エミーはぶつぶつと呟くようにそんなことを言う。
「あん? なんだお前、この街に来たことあったのか?」
「ない。だから悩んでるのよ。おかしいなあ。なんか懐かしい感じがしたのよね。抱きついた時とか、特に」
 なんだかちょっとおかしくて、思わず鼻で笑ってしまう。
「なんだそれ。映画とかでよくある運命の出会いってやつか」
作品名:「ナイフ」 作家名:terry26