「ナイフ」
ちょうど女が「コーヒーじゃなくて紅茶が飲みたい」とか言い出したので、気を紛らわせるついでにセイロンの茶葉を棚の奥から引っ張り出してきて淹れてやった。本当ならば何もこんなワガママに付き合ってやる必要はどこにもないのだが、初顔合わせでいきなり吐いてしまった暴言の分を埋め合わせするにもちょうどいいだろう。
ポットは事前に温めろだの、ジャンピングが起こっていないだのいろいろと文句を言われてキレそうになりながら紅茶を淹れて、ついでにすっかり沸きすぎてしまった俺の分のコーヒーをメーカーからカップに注ぐ。最後にお茶請けのクラッカーを皿に盛って用意は完了。部屋の中央にあるテーブルの上に全部運んで、女と並ぶ形で俺もソファーに腰を下ろす。微妙に俺との距離を開けながら女は自分でカップに紅茶を注いで、一度スプーンでくるりとかき混ぜてから口に含んだ。白い喉がごくりと紅茶を嚥下してゆく。
「ま、こんなもんよね。最初からそんな上等なのは期待してないわ」
女の言葉に思わずむっとなるが、何か言い返すようなことはしない。いちいち反応していては相手の思う壺だ。
コーヒーや紅茶の匂いに混ざって、時折女の甘い香りが漂ってくる。やはりどうにも落ち着かない。ここは俺の家だと言うのに、なんだかアウェー戦に臨むフットボールの選手みたいな心境だ。
お互いしばらくは黙っていたが、ちょうどお互い一杯目を飲み干したところで女がふいに言った。
「ねえ、そういえば名前は?」
「ん?」
「だから名前。あなたの名前よ。まだ聞いてなかったでしょ?」
そういえばそうだった。ついでに言うと俺も女の名前をまだ訊いていない。
「俺はリオネル。まあ好きなように呼んでくれ」
俺の姓はみだりに名乗ったりしないほうが無難だから、ファーストネームだけを伝えておく。ただ呼び合うだけならばこれで問題はないはずだ。
「リオネル、か。どこかのフットボーラーみたいな名前ね。呼び名はリオでいいかしら」
どこかのフットボーラー。きっと世界屈指のビッククラブに所属している、背が低くてドリブルが得意なあの選手のことを言っているのだろう。それならば俺も知っている。このあたりは俺が知りもしない政治家になぞらえた家主の婆さんとの世代の差というやつか。
「私はエミリエンヌ・マティス。呼ぶときはエミーでいいわ」
「……マティス?」
おかしな偶然もあるものだ。それとも偶然ではなしに何か意味が? とか考えたところでもちろん今は分からない。
お互いに名乗りあった俺たちは、今後のことについてあれこれ話し合った。やはり同年代の男と女、いくら広いとはいえワンルームのアパートで一緒に暮らすとなればいろいろと問題が出てくる。当然ながら自分のことをいきなりデリヘル嬢呼ばわりした俺のことを彼女――どうやら今後はエミーと呼ぶことになりそうだ――は信用できないらしく、寝るときとか風呂や着替えのことなどをしきりに気にしていた。どこから教わってきたのか知らないが、ただでさえエミーは「男はみんな狼だ」的な考えの持ち主らしく、どんなに「無理やりなんてのは俺の趣味じゃない」と説明しても納得しようとしない。最終的には渋々ながら俺の銃をエミーに渡して「自分の身は自分で守れ」なんていうボディーガードにあるまじき台詞を言うはめになった。逆に俺のほうが「ナントカに刃物」的な危険を感じないでもないが、きっとこれが男と女というものの理不尽さなのだろう。我慢するしかない。
そんなこんなで紅茶を全部飲み終えたエミーは、今度は「おなかがすいた」とか言い出して勝手に冷蔵庫の中を漁り始めた。なんだかもういちいち文句を言う気力もなくて黙って見ていると、なんとエミーはそのまま調理を始めてしまった。一応は「料理くらい俺がやる」とは言ったのだが、彼女は自分がやると言って聞かない。と言っても別に住まわせてやるお礼とかいう殊勝な心がけではないらしく、むしろその逆で「あんたみたいなのが作った料理なんて信用できない」なのだそうだ。随分な言われようだ。
というわけで不満はたっぷりあるのだが。さんざん憎まれ口を叩いていたわりには、食事の支度をするエミーの後姿はなんだか楽しげだ。料理をするのが好きなのかもしれない。
ふいに「こういうのも悪くないかな」という考えが俺の頭の中に浮かんできて、そんな自分に思わず驚いてしまった。あれほどこの部屋に他人を入れることが嫌だったのに、一体どういう心境の変化なのか。俺って実は「女だったら誰でもいい」とか思ってしまうほど飢えていたのだろうか? あるいは寂しかった? ――いや、そんなことはない。ない、はずだ。
そんなことを考えている間にエミーの料理が出来上がった。メニューは牛肉とマカロニが入った簡単なグラタンとシーザーサラダ、付け合せは例の店で今日俺が買ってきたクロワッサン。グラタンにも少しパンは入っているだろうから、炭水化物の量は結構多い。彼女、実はかなり腹ペコだったのかもしれない。
彼女のことだから作ったのは自分が食べる分量だけで俺の分はありません、とかいうオチがあるかもなんて思っていたがそんなことはなく、食卓に並べられた食事はちゃんと二人分あった。食事前のお祈りを簡単に済ませて、ついでに俺の平穏な暮らしが早々に戻ってくることを願ってからスプーンを口に運び始める。
もしまずかったりしたらさぞ気まずい思いをしただろうが、そんな心配は無用だった。むしろ俺が自分で作るものよりよっぽどうまい。素直に賛辞を述べるとエミーは嬉しくもなさそうに「今までもずっと独りだったからね。慣れてるだけよ」と言った。どんな事情があるのかは知らないが、どうやら彼女も彼女でそれなりに苦労はしているらしい。
食事の途中、エミーに「明日街を案内してくれ」と頼まれた。俺としては一応仕事なのだしそんな無防備に歩き回っていいのかと心配するところだが、エミーは自信満々で「大丈夫よ」と言う。
「さっきも言ったけど、今まで危ない目にあったことなんて一度もないのよ。守ってもらう必要なんて本当にあるのかどうか。そもそもなんで狙われるのかってことすら私は知らないわけだし」
なんだそれは。そんないい加減な話があっていいのだろうか。今の話が本当だとすると、この子は本当にただ「父親に言われたから」というだけでここへ来たということになる。父親と娘というのはそういうものなのだろうか? 俺にはよく分からない。
食事が終わって後片付けを済ませると、今度は「シャワーを浴びる」とエミーは言った。先ほど玄関で俺に投げつけてきたあのボストンバッグからバス用品一式を取り出しにかかる。どうやら彼女はタオルはおろかシャンプーやコンディショナー、ボディーソープや洗顔用品などのバス用品一式を全部持参してきたようだ。バッグの中をごそごそと漁って、あれやこれやと取り出していく。その様子をなんとなく眺めていたら、キッと彼女に睨まれた。
ちょっと失敗。風呂の用意をしている女性をじろじろ見るなんてのは確かにあまり行儀のいいことではない。
俺はごまかすようにテレビをつけて、そちらに集中するフリをする。