「ナイフ」
ぽたぽたと、温かな雫が俺の頬に落ちてくる。
ずるい、と思った。「涙は女の武器」とかよく言うけど、今ならその意味がはっきりと分かる。確かに俺の「ナイフ」なんかとは比べ物にならない最強の武器だ。たとえ俺がどんな決意を持っていたって、こんなの見せられたら何も言えないじゃないか。
「嫌よ。アンタの命令なんて誰が聞くもんですか。『自分の意志で決めた』とかアンタは言ってたけど、それと同じで私にも私の意志ってものがあるのよ」
涙をぼろぼろと流しながら、ひくついた声で語るエミー。それでもなお強がろうとする彼女は立派だと思う。
「アンタがどんな人間だろうと構わない。不幸かどうかは私が決める」
すがりつくように、エミーは俺の胸元を掴んでくる。お互いの吐息すら感じるほどの距離で、彼女は最後の一言を口にする時だけ本当の自分を曝け出した。
「だから、お願い。側に居てよ。ずっと私と一緒に居て」
――ああ。
自分の決意ががらがらと崩れていく音を俺は確かに聞いた。
もうダメだ。俺はこいつから逃げられない。
最後の力を振り絞って、そっと右手で彼女の頬に触れる。なめらかな肌、頬を伝う温かい涙。手のひらでそれらを感じた瞬間、かつて抱いたことのないような形容しがたい気持ちが俺の心を満たしていった。
言ってやりたいことは山ほどある。だけど、さすがにもう限界だ。口に出来るとしたら、あと一言。
何か、ないかな。
彼女への答えにもなって、俺の気持ちもちゃんと伝えられる一言。
あ、これかも。
「……好きだ」
うん、完璧。
※
次に目を覚ましたとき、俺はまたも真っ白な部屋に寝かされていてちょっとげんなりした。
白はもういいって。勘弁してくれ。
でも。
白一色に染まった天井を見上げながら、ふと違和感に気付く。
いつまで経っても「化け物」が目を覚まさない。妙だ。あいつの大好物が目の前にあるというのに、俺の心はむしろ落ち着き払っている。
「リオ!」
エミーの声が聞こえて、そっちに目を向けてみる。
パイプ椅子に腰掛けてこちらを覗きこんでくる彼女。周囲と同じく白い服を着ている。白のカットソーとデニムのミニスカート。あの時に買った服だ。
それを見てもやっぱり「化け物」は騒がない。本当に妙だ。
「よかった。もう、寝すぎよバカ。私のこと、ちゃんと分かる?」
安堵と不安の入り混じったような彼女の声を聞いて、思わずちょっと笑ってしまう。分かるに決まっているじゃないか。お前みたいに強烈な女の事、忘れようったって土台無理な話だ。
「分かるさ、エミー。ただでさえ死にかけてた俺を思い切りぶっ叩きやがったとんでもない女だ」
俺が言うと、エミーはほっとしながらむっとするという何ともややこしい表情を見せた。
「何よ。気がついて最初の台詞がそれ? 何かもっと他に言うことがあるんじゃないの?」
自分は素直さのかけらすら見せないでおいて、俺にだけ素直になれという。「心配かけてごめん」ぐらい言ってやろうかと思っていたけど、こうなったら意地でも言ってやらない。
「そうだな。ここ、どこ? あれからどうなったんだ?」
「そうじゃなくて! 私に何か一言はないの、一言は!」
「いや、だから訊いてるじゃねえか。敵地の真っ只中で気を失って、次に目を覚ましてみたらこんな場所――ここ、病院か? とにかく、いきなりこんなところで寝てたってんじゃあちっとも状況が理解できない」
「うー」と恨みがましい視線をエミーが向けてくるけど、当然のように無視しておく。
「そもそもステファンは――そうだ、ステファン!」
ふざけ合ってる場合じゃなかった。もっと大事なことがあるじゃないか。
「おいエミー、ステファンだよ! ステファンはどうなっ……あいってててて」
思わずベッドの上で身を起こそうとしたら、唐突に全身がびきびきと痛んだ。そうだ、そういえば俺怪我人なんだっけ。
「ちょ……バカ! じっとしてないとダメでしょ!」
「そうですよ。君の怪我はまだ全く治っていないんですから」
いきなり男の声で話しかけられて、思わずぎょっとしてしまう。一瞬の後、その声に聞き覚えがあることに気がつく。
「完全骨折が三箇所。亀裂骨折が五箇所。打撲も数え切れないほどあって、脳のダメージもまだ完全には治っていない。そんな状況で起き上がろうとするなんて、相変わらず君は無茶をする子ですね」
「……ドクター?」
さもそこに居るのが当然という顔で立っているので、最初は医者か何かかと思ってしまった。珍しく白衣を着ているので余計にそう見えてしまう。
「はい。久しぶりですね、リオネル」
ひょろりとした長身、分厚いレンズの黒縁メガネ。エミーの隣に立っているいかにも科学者然としたその姿を見て、俺の心は懐かしさと再会の喜びで一杯になった。
この人、今までどこに居たんだ?
「あの後、お父さんが助けに来てくれたってわけ。わかった?」
まだむすっとした顔をしているエミーが、しぶしぶといった様子で俺の疑問に答える。そこからまた何かを言おうとしたところで、ドクターが口を挟んだ。
「どうでもいいですが、リオネル。それからエミー。病院では静かにしましょうね。ここの患者は君たちだけじゃないんです」
う、と仲良く二人で下を向く俺とエミー。なんだか、あまり見られたくない場面を一番見せたくない人に見せてしまった気がする。
「ではお話を――いえ、その前に謝っておかないといけませんね。申し訳ありませんでした。もう少し私の到着が早ければあんなことにはならずに済んだかもしれないのに」
あんなこと。真剣な顔つきで語られたドクターの言葉で、恐らく一生忘れられないであろうあの光景が脳裏に蘇ってくる。
「グングニル」に貫かれたクロエ。慟哭するステファン。
「……いや。こうやって助けてもらっただけでも十分だよ。でもドクター、どうやってあそこまで入り込んできたんだ? あの施設、研究所のかなり奥なんだろ?」
「おやおや。君は私を誰だと思っているのですか。こう見えても私は君達の生みの親ですよ? 人工皮膚を使った変装なんてワケ無いに決まってるじゃありませんか」
急におどけた口調になるドクター。多分わざとやっているのだろう。俺を――いや、自分を含めてこの場に居る三人全員を元気付けようとしているのかもしれない。
「それに、あそこには私を信頼してくれる旧友たちもまだ何人か残っています。そのおかげで君やステファーヌへの処置も滞りなく行うことが出来ました」
そこで一旦言葉を切って、ドクターはこちらを安心させるような笑顔を見せる。
「だからね、心配する必要はありませんよ。ステファーヌはちゃんと元通りになります」
それを聞いてひとまずは安堵する。最大の心配事がこれで解消されたわけだ。
「……それと、クロエについてですが。彼女の葬式はステファーヌが目を覚ましてからにしましょう。目を覚ましてみたらもう式も終わっていたというのでは、彼も現実を受け入れるのが難しいでしょうから」
ずしん、と。一瞬だけ軽くなりかけた俺の心に鉛のようなものが落ちてくる。