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「ナイフ」

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 まるで頭の内側から何かに食い破られるような感覚。ぐにゃりと視界が歪んでいく。立っていられず、両手で頭を抱えたまま俺はその場にうずくまるようにして床に頭をつけた。
「っぎ……あ、が、ぁ」
 痛みが酷すぎてろくに悲鳴を上げることすら出来ない。口元からだらしなく涎がたれていくのを感じるが、当然ながら拭う余裕なんてあるはずもなく。粘っこい液体がポタポタと床を汚していく。
「ど、どうしたのリオ! 大丈夫?! しっかりして!」
 どうやら聴覚だけは無事のようで、戸惑ったようなエミーの声が聞こえる。だけど、どうしたのと言われてもむしろ俺が訊きたいぐらいだし、そもそも答える余裕なんてないに決まっている。
「どうやら効果覿面のようだな」
 その時、ふいに男の声が聞こえた。セドリックだ。スピーカー越しではない。いつの間にか部屋の入り口が開けられていて、俺たちのすぐ側に黒いジャケット姿のセドリックが立っていた。
「あなた! リオに何をしたの!」
 エミーが鋭い叫び声を上げる。俺も言ってやりたいことが山ほどある、というか今すぐにでも殴りかかりに行きたいところなのだが、体がいうことを聞いてくれない。
「なんだ、まずそれの心配なのか? もっと他に言うことがあるだろうに」
 セドリックはおどけた仕草で肩をすくめて見せる。俺たちの他には誰も見ていないせいか、無表情の仮面を被ることはやめたらしい。
「これは実験体が暴走した際の対応策として以前から考えられていたものだ。それの頭の中には特製のチップが埋め込まれていてな。ある特定の電波を流してやれば異能の力が使えなくなる仕組みになっている。まあ無理やりに脳の一部を制御するのだから多少の苦痛は伴うだろうが、なあに、死にやせんよ」
 これが「多少」だと。ふざけんな。思い切りそう叫びたいところだが、生憎とこっちはそんなことができるような状態ではない。
「ぐ、ぅ……て、めえ」
 少しだけ顔を上げて、睨みつけてやるので精一杯。俺の視線に気付いたセドリックは、まるで汚物を見るような目でこちらを見ながら近寄ってくる。
 と。ふいに、俺の視界がエミーの背中に遮られた。露出した白い肩と黒のキャミーソール。
「リオに何をするつもりよ」
 俺の位置からだとエミーの背中しか見えないので、セドリックがどんな顔をしているのか分からない。驚いているのか、憤っているのか、それとも嘲笑しているのか。
「どけ」と短い声が聞こえて、「どかない」という強い意志の篭ったエミーの声が応える。不覚にも胸が温かくなってしまった。思えば、こんなふうに誰かに守られるのなんて初めてかもしれない。俺にそんな権利なんてあるはずがないのだから当然だけど。
 そんなことを思った次の瞬間、ぱしんと乾いた音が響いて、エミーの背中が横向きに倒れた。腕を振るった姿勢のままこちらを睨んでくるセドリックと、自分の頬をおさえて倒れているエミー。セドリックがエミーの横っ面を張ったのだと気付いて、俺の心が一気に沸騰する。
「くく。ずいぶんと怖い顔をしているな。エミリエンヌに手をあげたのがそんなに気に入らなかったか?」
 セドリックは心から愉快そうな顔をしながら、俺の後頭部の髪を掴み上げてくる。本来ならば痛いのだろうけど、痛覚のメーターがとっくに振り切れてしまっている今の俺ではこれ以上何も感じることができない。
 セドリックが俺の顔を覗き込んできて、ちょうどいい角度になったので思い切り唾を吐きかけてやった。べちゃ、と粘ついた唾液がセドリックの整った顔に付着してどろりと垂れる。
 へ、ざまあみろ。
「こいつ……!」
 一気に逆上したセドリックは、まず俺の顔面をがつんと地面に叩き付けた。白い床と強引にキスさせられて、口の中に錆びた鉄のような血の味が広がる。
 それからセドリックは勢いよく立ち上がり、サッカーボールを蹴るような要領で何度も何度も俺の頭や腹を蹴りつけてきた。
「たかが実験体のくせに……っ! 一人前の人間みたいな顔をしやがって……っ!」
 セドリックが叫ぶ要領を得ない言葉と共に、どすんどすんという重い衝撃が全身を襲う。これはさすがに痛い。痛覚のメーターはもうとっくにリミットを超えていると思ったけど、まだ上昇する余地があったらしい。
「やめて! この、やめなさい!」
 エミーがセドリックの足元にすがりつくようにして、必死に静止させようとしている。ああ、もういいんだエミー。お前はじっとしていてくれ。
 いよいよ霞がかってきた視界の中、ふとセドリックがエミーの方を見て何やら口元を歪めたのが何となくだけど分かった。
「そうだ。いい事を教えてやろうか、エミリエンヌ」
 俺を蹴りつけるのをやめて、エミーの方に体を向けるセドリック。連続で叩き込まれていた衝撃はようやく途絶えたが、頭痛はいっこうに治まらない。むしろ酷くなる一方だ。
「お前はカロリーヌ――自分の姉を殺した人物を誰よりも憎んでいる。そうだな?」
 エミーは今どんな顔をしてるのか。まるで濁った水の中にいるみたいに視界が利かないのでさっぱり見えない。
「カロリーヌの死因は首の動脈を切り裂かれたことによる出血多量。警察の言うとおり、あれは間違いなくプロの犯行だった。その証拠に犯人どころか凶器すら未だ見つかっていない」
 視界はどんどんと白く染まっていく中で、聴覚だけがよりクリアになっている。芝居がかったセドリックの語り口調が耳障りだ。
「だがな、本当は違うんだエミリエンヌ。凶器なんてものはそもそもはじめから存在していなかったんだ」
 うるさい。黙れ。
「切り裂かれた首筋。存在していない凶器。分かるか? 目の前を見てみろ。お前が探し求めた、姉殺しの犯人がそこに居るぞ」
 そんなの知るかよ。いいから黙ってろ。
「それ――お前がリオネルと呼んでいる実験体が初めて『仕事』をしたのは四年前。対象はカロリーヌ・マティス。つまりはそういうことだ」
「嘘だ」というようなことを言うエミーの声。それから、何か金属質のものが床を転がる音が聞こえた。
「それを貸してやるから、お前の手でお姉さんの仇をとるといい。それがお前の望みだろう?」
 今にも頭が割れそうな痛覚の中、なんとか状況を整理してみる。
 エミーの姉を殺したのは俺で。エミーは俺を憎んでいて。今床を転がったのは、多分拳銃か何かで。
 ――ああ、そうか。今からエミーが俺を殺すのか。
 あの森の中での一件。あの時エミーが何を思っていたのか、少しだけ分かった気がする。ここでエミーに殺されるのならば、それも仕方ないかなと確かに思える。
 しばしの静寂。やがて銃を拾い上げる音と、誰かが立ち上がる音が聞こえた。
 あとは俺の意識が断絶するのを待つだけだ、と思ったその時。銃声の代わりに、うろたえたセドリックの声が聞こえた。
「……何故だ」
 目が見えないので、何が起こっているのかは分からない。だけど、どうやらセドリックの期待を裏切るようなことになっているようだ。
「あれが憎くはないのか。あれがあの手で君の姉の喉を切り裂いて、苦しみの中で死なせた張本人なんだぞ?」
「うるさい!」
作品名:「ナイフ」 作家名:terry26