「ナイフ」
エミーが言いかけたところで、視線の片隅でこちらに向けて右手を伸ばしているステファンの姿が目に入った。全力でボードを加速させ、エミーをクロエの亡骸ごと抱きかかえるようにして横っ飛びした俺の真後ろを「グングニル」が貫いていく。どおん、という振動。破砕された壁の破片がぱらぱらと俺たちに降り注ぐ。
「お前を守るって約束したから。俺はやらないといけないんだ」
エミー、そしてクロエの亡骸をそっと降ろしてやりながら、誰に言うともなく呟く。ステファンの方を見て、ボードを加速させる寸前になって、ぐいと後ろから腕を引っ張られた。
「……離せ」
「ダメ。行かせない」
こいつのどこにこんな力があるのだろう、と思ってしまうほどに俺の腕を離すまいとするその力は強い。それでもやはり、俺を拘束するのには全然足りなかった。強引に腕を振り払って、今度こそ俺はステファンに向かっていく。
泣き叫ぶようなエミーの声を背中で聞きながらスピードを上げる。ステファンがまた右手をかざしたかと思うと、俺に向かって連続で「グングニル」が発射された。
「あたらねえ! 忘れたのか? 俺にはあたらねえんだよ、ステファン!」
ひらりと高度を上げて一発目をかわしたあと、大きく弧を描いて宙返り。空中を蝶のように舞いながら「グングニル」をかわしていく。
まだ俺たちが研究所に居たころの話だ。ボードで遊んでいる俺を見て、ステファンはしきりに「かっこいい」と言っていたらしい。クロエからその話を聞かされた俺は、ドクターに頼んで普通のスケートボードを買ってきてもらっった。
ボードを受け取ったステファンは喜び勇んで練習を始めたのだが、元々それほど身体能力に優れていないせいかちっともうまくならない。やがて自分でやるのを諦めたステファンは「リオさんがやるのを見てるだけにする」とか言ったようで、「ナイフ」を使ったボードでの浮遊を練習している俺をクロエと二人でじっと見ていた。
クロエが言うには、そういう時必ずステファンはこう言ったらしい。「速すぎてよく見えない」と。ステファンは動体視力もあまりよくないようで、だからこそ「グングニル」の扱いにはクロエの助けが必要だったのだ。
「クロエと一緒じゃないお前なんて怖くねえんだよ!」
ステファンとクロエ。お互いの気持ちが通じ合うようになってからは、何をするにも二人は一緒だった。一心同体だったと言ってもいい。
自分の半身を失ってしまったステファン。かわいそうで仕方がない。今ここに自分があるということが苦痛で仕方がないに決まっている。
「待ってろ。今行ってやる」
飛んでくる「グングニル」の間をかいくぐるようにして、徐々に距離を詰めていく。元々照準がろくに合っていないのだ。それほど難しい作業ではない。
ステファンの姿が目の前に迫る。人を殺すことにだけ長けている自分に、今だけはほんの少し感謝したい。そのおかげで何も余計なことを考えるヒマもなく、一瞬の苦痛も与えずにステファンに止めを刺すことができるのだから。
狙いは首の根元。もう数え切れないほど繰り返してきたその作業を一つ一つ確かめるようにしながら、ゆっくりと腕をかかげていく。力の向きを変えて、ステファンの首を撥ねるために「ナイフ」を振るう――その寸前。
「やめて! リオ、お願い、やめてぇ!」
それまで完全に意識の外へと追いやっていたはずのエミーの悲痛な声が、何故かその時になって耳についた。
何故彼女はああも必死に俺を止めようとするのか。
決まっている。殺させたくないからだ。俺という身近な人間に、同じく身近な存在になりつつあったステファンを殺させたくないからだ。
殺させたくない。つまり今の段階ではステファンはまだ生きている。その命を、今から俺が奪う。
本当にそれでいいのか? 唐突にそんな考えが浮かぶ。
確かにこいつはクロエを殺した。クロエがステファンに向かって微笑みかけることはもう二度とない。二人が思い描いていた未来は完全に失われてしまった。
でも、ステファンはまだ生きている。いくらもうクロエが居ないからといって。たとえどんなに罪の意識に苦しむことになろうとも。こいつにはまだこれから先があるのだ。それを、俺が勝手に終わらせてしまっていいのだろうか? 何か別の道が開ける可能性だってあるのに、それを奪ってしまっていいのだろうか?
クロエが死んで、失われたものは彼女の命そのものだけではない。ステファンの未来。あの光景を目の前で見せられた俺とエミーの感情。他にもまだあるかもしれない。
この上、ステファンまでもが死んでしまえば。一体どれだけのものが失われるのだろう?
――ああ。
俺は唐突に理解した。
そうか、そういうことだったんだ。
「ナイフ」を振おうとしていた右腕をすんでのところで止めて、代わり全力でステファンに向かって突風をふき付ける。ステファンの体が大きく吹き飛ばされて、壁にぶつかって大きく跳ねた。どうやらうまい具合に頭をうってくれたらしく、そのまま意識を失ってうずくまる。
言葉にならない叫びを上げながら、エミーが駆け寄ってきた。彼女から見れば、俺が思いとどまったことなんて分からなかっただろう。
「大丈夫。気を失ってるだけだ」
片手で彼女を制しながら言うと、自分でもびっくりするぐらい落ち着いた声が出た。
頭の中はかつてないほどにクリアだ。今まで自分がやってきたこと。今まで自分が奪ってきたもの。ありとあらゆる物事が次々と蘇っては、今までとは全く違う認識へと書き換えられていく。
「すまんエミー。森の中で言ったこと、撤回させてくれ」
「え?」
自分がどんな存在か理解できた今、どうしても言わなければならないことがある。たとえどんなに悲しくても、だ。
「お前の言った通りだった。俺にはお前と一緒に居る権利なんてない。一緒に居たらお前が不幸になるだけだ」
真意を探るような視線が向けられているのを感じるが、俺はエミーのほうを見ることが出来ない。
「お前に危険が迫っている間はこの命に代えても守ってやる。でもそれが終わったら綺麗さっぱり俺のことなんて忘れてくれ。二度と会わないほうがいい。それがお前のためだ」
まるでどこかの映画か何かからそのまま抜き出してきたような工夫のない台詞。これ以外に言い方なんて思いつかなかった。頭の中は信じられない速度で回転しているというのに、ろくな言葉が出てこない。
「どうして? どうして急にそんなことを言うの?」
虚をつかれただけという感じだったエミーの視線が、徐々に悲しみの色に染まっていく。
「ねえ、どうしたの? 急にそんなこと言われたって、私、どう答えたらいいのか分からないよ」
悲しんでくれるのは素直に嬉しい。だけどダメだ。今はあれこれ考えてはいけない。
「エミー。俺さ、分かったんだ。分かっちまったんだ」
思わず宙を仰いだ。傷だらけの白い壁が目に映って、やはり自分の決断は間違っていないと確信を深める。
「分かったって、何が?」
「俺が今まで何をやってきたかってことが。つまりは――っぐ?!」
一番大事な部分を口にしようとしたところで、唐突に激しい頭痛に襲われた。
痛い。むちゃくちゃ痛い。