「ナイフ」
今から何が起こるか。ステファンが破壊衝動について語ったとき、あいつは何を一番恐れていた? 誰が自分の破壊衝動の対象になると言った?
それに思い当たった瞬間、俺の顔面からざあっと血の気がひいていくのを感じた。
――まずい。
「やだ。どうしてそんな悲しいこと言うの? そんなのやだ! ステフが居なくなったら私だって生きていけない!」
まずい。まずい。まずい。
「クロエ! ステファンから離れ――」
ろ、と言い切ることができなかった。叫んで走り寄ろうとした俺と、さっぱり事態を理解できていないエミー。二人の目の前で、それは起こった。
ステファンが右手をかざすのと同時だ。間に合うわけがない。
ドン、という「グングニル」の発射音。クロエの小さな体が高く舞い上がって、反対側の壁にぶつかって落ちてくる。びしゃ、と粘っこい音と共に真っ赤な鮮血が広がった。
そして無音。
右手をかざした姿勢のまま身じろぎ一つしないステファンと、凍りついたように動けない俺とエミー。そして、動かなくなったクロエ。音を立てるものがなにもないから、しばらく無音状態が続いた。
「あ……あ……クロエ!」
しばらくの後、静寂を破ったのはエミー。クロエのところへ駆け寄って、首の下に手を回して抱き起こす。
「クロエ! しっかりしてよ、クロエ!」
エミーは必死に呼びかけているが、クロエが返事をすることはない。それはそうだろう。至近距離から「グングニル」に心臓を貫かれたのだ。生きているはずがない。
ああ。こんなことを冷静に考えている自分がひどく嫌だ。どうして「まだクロエは生きているかもしれない」とか考えられないのだろう。「何かの間違いであってほしい」でもいい。
でも、俺にはやっぱりそんなふうに考えることは出来なくて。目の前の出来事は紛れもない事実だと。強くなった破壊衝動を抑えきれなくて、ステファンが「グングニル」でクロエを撃ち抜いて殺してしまったのだと。そうとしか認識できない。
「やだ! こんなのやだぁ! クロエ、お願い、目を開けて! 目を開けてよ!」
叫ぶエミーの声に涙は混ざらない。悲しくないわけはないだろうから、目の前で起こったことがまだ信じられないのかも知れない。きっとそれが普通の人間というものなのだ。
「――ステファン」
普通でない俺は、ただじっとステファンを見つめる。俺と同じ、普通ではないステファン。破壊衝動という化け物を抱え、それでもクロエと幸せになろうと頑張っていたステファン。
「ヴ……ヴ……」
声を出せないはずのステファンの口から、何かが漏れる。
「ヴォォォォォォーーーーーーーーーーッ!」
人ならざるモノの叫び。俺が「化け物」と呼ぶ存在の慟哭。
最期の時、「そんな悲しいことを言わないで」とクロエは言っていた。あの時ステファンは何と言ったのか。今になって、それが俺にも聞こえた気がした。
――殺してくれ。
ステファンはそう叫んでいる。
――殺してくれ。殺してくれ。
何度も何度も、涙を流しながら俺に向かって哀願している。
ステファンと出会って十数年。「言っている気がする」とかではなくて、初めてはっきりと耳にすることができたこいつの言葉がそれだった。
「俺は、お前ともっと別のことを話したかったよ」
俺はどうするべきなのか。分かっている。
「彼女を傷つけてしまう前に自ら命を絶つつもりだ」とステファンは言った。だからこそ、今俺のすべきことは。
「クロエとのノロケ話でもいいんだ。こっちが呆れちまうような話でも構わない。お前にはもっと、幸せなことを語ってほしかった」
静かなところに一軒家を建てて、そこに二人で住むのだと語ったクロエの幸せそうな顔。二人が想い描いていた、光に満ち溢れた未来。
それが失われてしまった、今。
「……ちくしょう」
もしステファンが元の状態に戻ることができたとして、果たして生きていけるのだろうか。クロエの居ない世界、自分の命よりも大切に思っていたものを自らの手で殺してしまった現実。そんなものを抱えて、果たしてステファンは生きていけるのか?
「ちくしょう、なんでだよ。なんでこんなことをするだ、セドリックーーーーッ!」
叫んでみても、応える声は聞こえてこない。傷だらけになった白い部屋の中にむなしく俺の声が木霊する。
いつかエミーが言った、憎しみと言う感情。今それをはっきりと感じる。
俺たちをモルモットと同等に扱っていると言ったが、どうやらそれは違ったようだ。あの男は楽しんでいる。俺たちをおもちゃのように弄んで、モニターの向こうで高笑いしているのだ。
ステファンの破壊衝動を強くすれば何が起こるのか。そしてコトが起こった後、ステファンは何を望むのか。全部分かった上であの男はやっている。
何故ここに俺のボードが置いてあったのか、その理由は明らかだ。
殺せ、と。ステファンの望みに応えてやれと。あの男はそう言いたいに違いない。
恐らくこれは死刑のつもりなのだ。クロエを破壊した「化け物」の次の標的はたぶん俺になる。このままぼうっと立っていればいずれ俺もクロエと同じ運命をたどることになるだろう。そうして俺が死んだ後は、きっと。
視線を向けてみると、エミーはまだ信じられないと言った様子でクロエに何事かを呼びかけていた。
「もう誰も殺さないで」と言ったエミー。俺が今考えていることを知ったらあいつはきっと怒るだろう。もし実行に移してしまえばもう一生口をきいてもらえないかもしれない。
それでも構わない、と思った。セドリックの意図した通りになってしまうのも癪だが、エミーを守りきれないよりはずっといい。
ステファンのほうを見る。
――殺してくれ。
また聞こえた。
「分かったよ。『協力する』って約束したもんな。その役目、俺が引き受けてやる」
ボードのところまで走っていって右手で拾い上げる。「ナイフ」を解放し、空中へと浮かび上がったところではっとエミーが顔を上げた。
「待って。何をするつもりなの、リオ」
クロエの亡骸を抱えているせいで、エミーの胸元にはべったりと血が付着している。今の感情を表す術がないからだろうか、俺を見つめてくるその顔はむしろ無表情に近い。
「あいつを止めないと、俺やお前も危ない」
対する俺はどんな顔をしているのだろう。自分ではよく分からない。
「止めるって、どうするの?」
何も答えられなかった。それでも抑えの利かない俺の表情が雄弁に物語っていたのだろう、エミーが声を切迫させる。
「やめてよ! お願い、もうやめて! これ以上は、もう私、私――っ!」
最後は言葉にならなかった。感情が決壊してしまったようなエミーの表情を見て、思わず俺も声を荒げてしまう。
「でも、じゃあどうしろってんだ! こんなことになって、それでもあいつに生きていけって言うのかよ! そっちの方が残酷だろうが!」
エミーは激しく首を横にふる。
「分かんない! 分かんないわよ! でもそんなのダメ! そんなの――」
「危ない!」