「ナイフ」
なんていうか、俺の中にあるエミーのイメージからすると、人を起こす時にそっと肩を揺するなんてことはまずしない。思い切り胸倉をつかんで揺さぶるか、ヘタをすると蹴り飛ばされそうだ。声もあんなに穏やかなのではなくて「こら、いつまで寝てんのよこの寝ぼすけ!」とかそんな感じ。
「ま、いっか」
また目の覚めきらない頭をがりがりとかきながら時計を見てみると、もう午後五時になっていた。そりゃあ夕日も差すわけだ。
部屋の片隅ではステファンとクロエが仲むつまじく談笑している。なんだかこの部屋も騒がしくなったもんだなーとか思いながら立ち上がって、顔を洗いにバスルームへ入ろうとしたところで。
「――リオさん!」
いきなり背後でクロエが鋭く叫んだ。
「エミーさんが、エミーさんが! このアパートの玄関です! 急いで!」
振り向くことすらせずに、そのまま俺は廊下へと飛び出した。軋んだ床板をぶち抜くつもりで思い切り廊下を掛けぬけて、二段飛ばしで階段を飛び降りる。
と、そこで目に飛び込んできたのは。
「動くんじゃないよ、リオ坊!」
アパートの出入り口のところで背後から抱きすくめられ、喉元にナイフを突きつけられているエミーと。彼女を捕らえているその人、家主の婆さんの姿だった。
「いいかい、一歩でもそこからこっちに近付いたらすぐにこの子の喉元を掻っ切るからね。こっちは死体でも構わないと言われてんだ」
深いシワの奥にある瞳をギラつかせ、ドスのきいた声で脅しをかけてくる家主の婆さん。「目を疑う」というのはこういうことなのか、とか考えている自分が居る。今まさに自分の目に映し出されている光景が信じられない。
ふいに後ろから足音が聞こえてきて、俺のすぐ後ろあたりでピタリと止まる。ステファンだ。
「そっちの坊やも妙な動きをするんじゃないよ。あんた達は妙な力を使うと聞いてるからね。あたしも容赦なんてしないよ」
なるほど、これではいくらクロエでも事前に予測することは不可能だ。いくら全ての物音が聞こえると言っても、それを判別するのはあくまでクロエ自身。何か異質なものが近付いてきている場合は簡単に気付くことができるが、今回みたいに「元からあるものが実は危険だった」という場合は相手がボロを出さない限り看破はできない。
「……リオ、ごめん」
喉元にナイフを気にしながら、ひくつくような声を出すエミー。それを聞いて、ようやく俺の頭にも冷静さがいくつか戻ってくる。
「何のつもりだよ、婆さん」
俺が言うと、萎んだ風船みたいにシワシワの唇を歪ませて婆さんは「ハッ」っと薄く笑った。
「何のつもりだって? おめでたい子だね。あんた、一度も考えたことがなかったのかい? ここに来た時はまだたったの十四だった自分が、どうして一人で部屋を借りていられるのか」
出来の悪い生徒にものを教える教師のような口調で、婆さんは語る。
「決まってるじゃないか。あたしが組織の関係者だからだよ。『上』から頼まれて特別にあんたを住まわせてやってたんだ。そうじゃなけりゃ、十四のガキに部屋を貸す人間なんてどこに居るかね」
くそ。思わず歯噛みした。やっぱり俺に油断があったのだろうか? でもこんな事態を予測しろだなんてあまりにも無理がある。俺はこの婆さんが管理人室から出てきているところすら見たことがなかったのに。
「一度逃げ出したまではよかったのに、まさかノコノコと戻ってくるとはね。だからあんたはいつまで経っても『リオ坊』なんだ。あんたらのしてることなんて、私から見ればガキのおままごとさ。もうちょっと世間というものを知りな」
顔は動かさず、意識だけを背後のステファンに向ける。こいつの能力ならばここからでも何とかできるはずだ。婆さんに聞こえないよう、前を向いたまま小声で言う。
「ステファン。お前の『グングニル』で――」
言いかけたところで、いきなり二階から聞こえてきた甲高い悲鳴に遮られる。今の声、まさか。
「動くんじゃないよ! いいかい、動くんじゃないよ。あたしだってここを血で汚したくなんてないんだ」
間髪居れずに駆け出そうとしたステファンだったが、婆さんに先手を取られて足を止める。よかった、なんとか我を忘れずにはいてくれたようだ。
やがて二階からドタバタと物音が聞こえてきて、エミーと同じように背中から羽交い絞めにされて手足をバタバタとさせているクロエが降りてきた。クロエを捕らえているのは三十がらみのいかつい男。見覚えがある。あれは確か、ここの住人の一人だったはず。まだ協力者が潜んでいたのか!
「離して! 離しなさい! 離さなかったら思い切り噛み付いてやるんだから!」
こっちは刃物を突きつけられているわけではないので精神的には余裕があるようだ。が、それも男がポケットからバタフライナイフを取り出したところで一変。「ひゅっ」と小さく息をのんで大人しくなる。
「うぅ。ごめんなさい、役立たずで」
戦いに慣れていないせいもあるのだろう、クロエは早くも涙目だ。ステファンはエミーとクロエを交互に見て、自分を必死に抑えようとしてくれている。
しかし、これだけ大騒ぎしているというのに他の住人は一体何をしているのか。助けれてくれとは言わないが、何事かと顔を覗かせる人間の一人や二人くらいは居てもよさそうなものなのに。
ちらちらと周囲に目を配っている俺の様子を見てか、婆さんがまたもこちらを馬鹿にした笑みを浮かべる。
「誰かに助けを求めようったって無駄だよ。ここに住んでるのはみんなこのあたしに恩義のある人間さね。大抵のやつはあんたの素性を聞いてびびっちまってるみたいだが、それでもあんたらに協力しようなんていうお人好しが一人もいないことだけは確かだ」
何ということだ。そんな、言わば敵の巣窟のような場所に自分から足を踏み入れてしまったなんて。婆さんがあんな顔をするのも無理はない。あちらから見れば俺たちはさぞ間抜けに見えたことだろう。
「さあ、これで状況は決したね。あんたがどんな力を使うか、おおよそは聞いてるんだ。リオ坊はその位置からじゃあ何も出来ない。そうなんだろう? そっちの坊やは知らないが、そのツラを見ると同時に二人を助けるのはどうやら無理らしいね。言わなくても分かってるだろうけど、たとえどちらか一方を助けることが出来たとしてもその瞬間にもう片方は死ぬことになるよ」
ちくしょう。悔しいけどあいつの言うとおりだ。いくら頭を働かせてみても二人を同時に助ける方法なんて思い浮かんでこない。
「もうすぐ組織の人間が迎えに来るから、それまで大人しくしてな」
万事休すなのだろうか。こうなったらせめて、今出来る限りのことをしなくては。
「分かった。もう抵抗しないから、こっちの二人は離してやってくれないか。今回の件にこの二人は関係ない」
俺が言うと、婆さんは心底呆れたというような顔をした。
「何言ってんだい。その二人を逃がす? ハ、世の中を知らないのにも程度ってものがあるだろうに。いいかい、その二人は立派な裏切り者だよ。組織の手配リストにはずっと昔から入ってんだ。捕まえた時の報酬はあんたたちよりもずっと上さ」
駄目だ。話の通る相手ではない。