「ナイフ」
昨夜のこともあるし、と心の中でだけ付け加えておく。
『大丈夫ですよ。今すぐになんて言いません。それにエミーさんと居ればひょっとするとドクターに会えるかもしれませんからね。とりあえず、しばらくの間はリオさんの手助けをさせてもらいます』
なるほど。そういう考え方もあるわけだ。
『わりぃな。その時が来たら必ず協力してやるから。約束する』
『はい。頼りにしてます』
ステファンはにっこりと微笑んで、もう一度ハンチング帽を被りなおした。
思わず拍子抜けするほど何事もなく、タクシーはアパートへと到着した。何かおかしな物音が聞こえないかクロエに再度確認してもらってから、外から見ればボロ屋敷そのもののアパートへと四人で足を踏み入れる。
「おや。あんたがそんなに友達を連れてくるなんて、珍しいこともあるもんだ」
と、これは家主の婆さんの台詞。それから婆さんはふと何かを思い出した様子で、
「ああそうそう、エミーちゃんに渡すものがあるからね。あとで一人でおいで」
と言った。
「渡すもの? なんですか?」
「ここじゃあ言えないものだよ。いいかい、ちゃんと一人で来るんだよ」
露骨に怪しい。さすがにエミーもいぶかしげな顔をしていたが、ひとまずは「はあ、分かりました」と返事をして二階へと上がっていく。
廊下を渡ってドアを開ければ、ついに懐かしき――と言っても出てからほんの数時間しか経っていないけど――我が家へと帰り着く。幸いまたいつかみたいに荒らされているなんてことはなく、以前と変わらぬ安住の地が俺を迎えてくれた。
エミーは「シャワーを浴びる」と言ってバスルームへ消えていき、俺はステファンに手伝ってもらいながら傷口の消毒。クロエのお陰でさしあたってここから数キロの範囲内に危険はないことが判明しているので、流れる時間は比較的緩やかだ。
「それにしても、なかなか素敵なところですね。外を見たときはびっくりしましたけど」
床にぺたんと女の子座りをしたまま、クロエは興味深そうに部屋の中を見渡している。初めて来た時のエミーと似たような反応だが、むやみに歩き回ったりしないあたりが慎みの差か。
「そういや、お前らはどんなところに住んでるんだ?」
ステファンに背中から包帯を巻いてもらいながら、暇つぶしがてらの世間話。昨日の今日でちょっと気を抜きすぎているかなとも思うけど、家に帰ってきたのだから多少の緩みは許してほしい。
「いえ、ちゃんとした住まいはなかなか持てなくて。ほら、私達って保護者とか誰も居ないでしょう? なかなか部屋を借りられないんですよ。お金もないですしね」
「そっか。じゃあ今まではどうやって?」
「いろいろです。お金があったらホテルに泊まったり、親切な人のうちに泊まらせてもらったり。空き家に入り込んだりとか、野宿も何度かしました」
「へえ。お前らも大変だね。……あれ、でもそんなんでどうやってドクターはお前らに連絡をつけてきたんだ?」
「あ、それはですね。実は私達、逃げ出してすぐくらいの時に一度ドクターと会ってるんです。遠くの町でですけどね。その時にいくらかのお金と一緒に携帯電話も頂きました。いつでも連絡がつくようにって」
「ふうん。しかしお前ら、そんなんでよく今まで生きてこられたな。いつもどうやって金を稼いでるんだ?」
「あー、えっと。それはですね、日雇いのアルバイトとか、それと……あの、えっと」
なんだか急にクロエの歯切れが悪くなったところで、ステファンが背中からメモ用紙を差し出してきた。
『はじめのうちは悪い事もしてしまいました』
「おいおい、大丈夫だったのかよ。今のお前らには何の後ろ盾もないんだぞ」
『そうですね。我ながら無茶でした。今はもうしてません』
その「悪い事」というのが何なのかは訊くべきでない気がする。二人だって後悔しているようだし、何よりこの俺に責める権利なんてあるはずもない。
「辛くないのか? そんな生活で」
「はい。ステフが居てくれたらなんだって耐えられます」
クロエがきっぱりとした口調で答えて、それに追随する形でステファンもうなずく。
「でも、一生このままっていうのはさすがにね。二人でいろいろ話してるんですよ。将来的にはこんな街中じゃなくて、どこか静かなところに一軒家を建てたいねって。そこでしばらくは二人きりで過ごして、そのうち犬を飼って。子供は三人くらいがいいな。一人や二人だけだったらちょっと寂しいし、逆にあんまり多すぎても大変そうだし」
そうやって語るクロエの声はまさに夢見る少女そのもの。ステファンは今どんな顔をしているのだろうか。振り向いて見てみたい気もするし、見たくない気もする。
「ま、どうせお前らならほっといても幸せになるだろうさ。あ、終わったか? サンキュ」
包帯も巻き終わったようなので、軽くステファンにお礼を言ってソファーへと移動。どっかりと腰を落ち着けて大きくため息をついてみると、なんだか眠くなってきてしまった。忘れていたけど、考えてみれば昨夜は全く眠っていないのだ。
ステファンとクロエもいることだし、少しくらい休ませてもらっても問題はないはず。「仮眠をとる」とだけ二人に伝えて、俺は目を閉じた。
※
ゆさゆさ、ゆさゆさ。
「ん……ん?」
誰かにそっと肩をゆすられているのに気がついて、まどろみから抜け出せないまま片目だけをあけてみる。
「起きて。ねえ起きて、リオ」
まるで優しく歌っているかのように心地よい声。寝ぼけているせいか、目の前に居るのが誰なのか分かるまでに少し時間がかかってしまう。
「……エミー?」
どうやら仮眠のつもりが結構な時間寝てしまったようで、窓から差し込んだ夕日がエミーの金色の髪をうっすらと染めている。
きらきらと光る髪、フリルつきの黒いキャミーソール。寝ぼけ眼にぼんやりと浮かび上がるその姿がまるでおとぎ話に出てくる妖精か何かみたいで、
「きれいだ」
思わずそんな言葉をぽろりとこぼしてしまう。
「ばーか。なに寝ぼけてるのよ。ねえ、私ちょっとアガサさんのところに行ってくるから。前みたいに慌てて探し回ったりしないでね」
エミーのほうには照れた様子なんてちっともなくて。なんだかちょっと悔しい。
「アガサ? 誰それ」
「は? ちょっと、寝ぼけるのも大概にしなさいよ。家主のおばあさんじゃない」
へえ。あの人アガサって名前だったのか。知らなかった。
「あー、そういや後から来いとか言ってたな。なんか露骨に怪しかったけど。別に無視しといたらいいんじゃね?」
「なに言ってんのよ。相手は家主なんだから、ちゃんと敬意を見せとかないとダメでしょ?」
「そっか。一人で大丈夫か?」
「もう。なによアンタ、実は心配性? ちょっとそこまで行くだけなんだから大丈夫よ。それじゃ、行ってくるね。帰ってきたらみんなで買い物に行くから、それまでにちゃんと起きておくこと。分かった?」
「はいよ。了解しました」
ドアの向こうに消えていくエミーの姿を見送ってから、むくりと体を起こした後。その時になってようやく、小さな違和感に気付く。
「……だれ、今の。なんか雰囲気違くね?」