「ナイフ」
まだ不安そうな顔をしているエミーに向かって、俺は最大の根拠を示してやる。
「それに、俺たちにはあいつがついてる」
思わず指をさしてしまったけど、どうやら聞こえていたようで。彼女はこちらを向いてにっこりと微笑んだ。
「任せてください。私がいる限り、お二人に危険は近付けさせません!」
元気よく言って、ふっくらとした自分の耳たぶを叩いてみせるクロエ。「ああ、そういうこと」と、エミーもようやく納得してくれた。
※
というわけで、とりあえずは森を出て人里へ。いつの間にか辺りはもうすっかり明るくなっていて、携帯を見てみると時刻はもう午前八時を過ぎていた。ちょうど通りかかったタクシーを捕まえて、そのままアパートへと向かってもらう。
物音を探るのに集中してもらわないといけないので、クロエは助手席へ。たとえ一時でもステファンと離れるのが嫌だったらしく、少しゴネたりもしたのだけど。なんとかステファンに宥めてもらって今の形に納まっている。
従って、後部座席には三人。右からステファン、俺、エミーの順番だ。なんで一番大きい俺が真ん中なのか納得のいかないところだけど、実はこの並びには必然性がある。まず一番右側にステファンが座っているのは、少しでも自分の近くに居てほしいというクロエの要望から。そして俺がステファンの隣に居るのはタクシーに乗り込む前に『ちょうどいい機会なので乗っている間にさっき言ったお話をしておきましょう』と書かれたメモをステファンに手渡されたから。ということでエミーには左側の席しか残されていなかったというわけだ。彼女も別に文句は言わなかったけど。
『クロエに聞かれたくないので、リオさんも筆談でお願いします』
車内でまず見せられたメモがこれ。よっぽど聞かれたくない話らしい。俺が頷いてやると、ステファンはいきなり本題から入ってきた。
『破壊衝動。リオさんにもありますよね』
う、と思わず息を詰まらせてしまう。破壊衝動。そうか、あの「化け物」にはそんな名前があったのか。
『僕はこれ、遺伝子操作による副作用だと思っていたんですが、そうではないかもしれないんです。どうやらクロエにはないみたいですし』
そうなのか。俺もてっきりこの「化け物」は俺が生まれたときからずっと住み着いているのだとばかり思っていたけど。
『ずっと人殺しの教育ばかり受けていた弊害だという可能性もありますけど、仮にもしこれが僕達だけに意図的に植え込まれたものだとしたら?』
問いかけられて、そこで初めて俺もペンを走らせる。
『研究所に行けばあいつを消す方法があるかもしれないってことか?』
『そういうことです。ドクターに訊いてみたかったんですが、僕はこの通りだから電話はできないし。クロエのところにも非通知でかかってみたみたいだから連絡をつける方法がないんです』
ドクターもなかなか徹底している。せめて電話番号だけでも分かれば俺が代わりに掛けて――あ、それだとどっちにしてもクロエに聞かれるのか。
『僕の破壊衝動は日に日に抑えが利かなくなってきています。もしこれを消す方法があるのだとしたら、一刻も早く処置をうけないと』
『ちょっと待て。まさかお前、研究所に乗り込むつもりかよ?』
俺が書いたその一文を見て、ステファンは一度手を止めて顔を上げた。じっと俺の顔を見てから、ゆっくりと助手席に座っているクロエのほうへ視線を移す。
『僕は彼女が好きです』
その短い一文に、一体どれほどの想いが込められているのだろうか。真っ直ぐに助手席を見つめるその瞳には一点の濁りもない。
『知ってるよ。嫌というほどな』
『そうですね。すみません』
ステファンはちょっと笑って、それからまたきゅっと表情を引き締める。
『その想いが強くなれば強くなるほど、破壊衝動も大きくなるんです。無理やりに抑え込もうとすると全身が痺れて、頭が割れそうに痛んで。体の自由を失ったのだって、一度や二度ではありません』
ステファンは一度ペンをおいて、自分の手のひらをじっと見つめる。その手が微かに震えているように見えるのは気のせいなのだろうか?
『リオさんは、エミーさんを抱いたことがありますか?』
飲み物を口に含んでいなくてよかった。もし何か飲んでいたら間違いなく「ぶっ」と噴き出してしまっていただろう。
『抱くって、抱きしめるとかそういうのじゃない、もっと深い意味のほうか?』
『はい、そうです』
『あるわけねえだろ、んなの。いきなりなに言いだすんだよ。俺とエミーはそんな関係じゃねえ』
『そうなんですか。じゃあ分からないかもしれませんが、この破壊衝動は単に見た目が綺麗なものだけに反応するわけじゃないんですよ。むしろ形のないもの、誰かが自分に向けてくれる信頼や愛情といった類の感情こそをこの衝動は破壊したがっている気がします』
そうか。少し分かった気がする。さっきエミーとの一件でかつてないほどに俺の「化け物」が騒いだのもきっとそのせいなのだろう。
『だから、僕にとって衝動の対象となるのはクーなんです。彼女の愛情を身体でじかに感じる瞬間。一番幸せであるはずのその時に、僕の衝動は暴れ出す』
何とも言えない。そんなのでこいつは幸せなのだろうか?
さっき見たばかりの光景が頭に浮かぶ。幸せそうに笑い合っていたあのとき、こいつは心の中で何を思っていたのだろう。
『自分が怖くなって、彼女から逃げてしまって。彼女を傷つけ泣かせてしまったことも、一度や二度ではありません。時々思うのですが、普段の彼女が過剰なまでに甘えてくるのはその反動なのかもしれない』
なんだか悲しい。てっきりこいつらには何の不安もなくて、ただ二人で居ればそれだけで幸せなのだとばかり思っていたのに。結局俺たちには普通の幸せを手にすることはできないのだろうか?
『このままでは、きっと僕はいつか彼女を本当の意味で傷つけてしまう。もしかしたら殺してしまうかもしれない』
今度こそはっきりと、ステファンの手が震えるのを見た。こいつは恐れている。こいつの中の「化け物」を――いや、もしかしたら自分自身を。
『本当にもうダメだと思ったら、その時僕は自分で自分の命を絶つつもりです。でも、そうなったらきっと彼女だって生きていられない。自惚れじゃなくて、僕達は本当にそういう関係なんです』
それはそうだろう。見ているだけで十分にそれは伝わってくる。ステファンを失ったクロエ。クロエを失ったステファン。どちらも想像なんてできないし、したくもない。
『僕達が幸せになるにはこの破壊衝動をなんとかする他に道はない。ごめんなさいリオさん。クーはきっと本心からあなた達を助けるために来たんでしょうけど、僕は違うんです』
ステファンはハンチング帽をとった。露になった茶色の髪がさらさらと流れる。
『リオさん。手伝ってください。僕と一緒に研究所へ来てください。お願いします』
じっと茶色の瞳に見つめられて、いたたまれなくなった俺は視線を逆に向ける。そこにはエミーが居て、こちらには向かずにじっと窓の外を見つめていた。
『すまん。もう少しだけ、せめてこいつの問題が解決するまで待ってくれないか。こいつを置いて他のところに行くなんて、今のところはできそうにない』