「ナイフ」
その頃のクロエは恥ずかしがり屋で心優しい、可憐という言葉がぴったりの女の子だった。持っている力が戦闘向きではなかったことも大きいだろう。俺なんかとは違って、人殺しの訓練なんかもされられていないはずだ。俺たち三人の中では一番「普通」に近い存在だったと言える。
そんなクロエに甲斐甲斐しく世話をされて。はじめのうちは冷たくあたっていたらしいけど、段々とステファンも心を開いていった。誰とも会話をしたことがない彼にとって、クロエという存在は大きな喜びだったようだ。んで、気がついたらすっかりステファンはクロエにやられてしまっていたらしい。
告白はステファンから。その時の話はクロエから散々聞かされて耳にタコができている。「この気持ちが恋ってやつなのかな?」とか言われて、最初クロエは怖くなって走り去ってしまったらしい。なんだかんだ言っても俺たちは普通とは違う。恋なんていうのは物語の中か、あったとしても研究所の壁の向こう側での出来事だと信じて疑わなかった。
そこからのまるで出来損ないの青春恋愛ドラマみたいな展開は、正直あまり思い出したくない。俺もドクターも思いっきり巻き込まれた。まあ簡単に言えば世話に来なくなったクロエのところに足しげくステファンが通って、最終的には口説き落としてしまった形になるのだけど。そうなるまでの間に散々当て馬や逃げる口実に使われた俺やドクターの身にもなってほしい。
とにかく、そうやってくっついた二人。はじめのうちは少しぎくしゃくしていて初々しいカップルだったのだけど。微笑ましい思いで見守っていたら、いつの間にか所構わずベタベタするバカップルになってしまっていて。結局それが改善されることなく今に至るというわけだ。
「あーあ。もう放っておこっか。二人で今後のことを決めましょ」
エミーがため息混じりに言った。あまり関わり合いになりたくないといった様子だ。
「そういうわけにもいかないだろ? まだ一番肝心なことが聞けてない」
目をぱちくりさせて、目線で「肝心なことってなに?」と問いかけてくるエミー。直接答えることはせず、クロエ――に話しかけても無駄だろうからあえて彼女のステディに声をかけてみる。
「んで、ステファン。おーいこらステファン、ちょっとの間でいいから聞け。質問の順番が完全に前後しちまったけど、お前ら一体何しに来たんだ? 『上』の人間にはなんて言われて来た?」
俺が言うと、目の前のバカップルは二人同時にこちらを見て、それから二人で顔を見合わせた。何やらこそこそと語り合う様子を見せてから、クロエが再びこちらを向く。
「あの、リオさん。知らなかったんですか? 私達、とっくに『上』からは逃げ出してるんですよ」
「え。マジで?」
知らなかった。確か俺が研究所を出るときにはちゃんと居たはずだけど。
「はい。社会に適応できるかどうかの実験、とか言ってリオさんが出て行ったすぐ後でした。私達にも仕事が回ってきたんです。人を殺せってね。私達を二人セットで使って、狙撃銃要らずのスナイパーに仕立て上げようとしてたみたいです」
確かにこの二人を見れば誰だってまず最初にそれを思いつくだろう。能力の相性がいい上にコンビネーションもばっちり。利用しない手はない。まあ「グングニル」の射程はせいぜい三百メートルほどなのでクロエの「スナイパー」という表現はちょっと大げさな気もするけど。
「それで二人一緒に外へ出されたんで、そのまま逃げちゃいました。言ってみれば駆け落ちみたいなものですね。やだ、こうやって考えてみるとなんかロマンチックじゃない? ねえステフ」
あ、まずい。また始まってしまう。助けを求めてステファンの方を見てみると、目が「ごめんなさい」と言っている。やっぱりこいつ、ちゃんと話の通じる奴だ。話せないけど。
「え? あ、ごめんなさいリオさん。あー、えっと、何でしたっけ。ああそうそう、駆け落ちの話でしたね。私達は二人で――」
「いや、違うだろ。なんでここへ来たのかって話だ。思い出話は後でゆっくり聞かせてもらうから、まずはお前らの目的を教えてくれないか?」
もちろん「後でゆっくり聞かせてもらう」気なんてさらさらないけど。きっと物凄く長くなるだろうし、何より他人のノロケ話ほどつまらないものはない。
「あー、はい。でも駆け落ちの話もあとでちゃんと聞いて下さいね? すっごいドラマがあったんですから」
「分かった分かった。ちゃんと聞いてやるから」
まったく、話一つ聞くのにも一苦労だ。本人たちは楽しくて仕方がないのだろうけど、少しはこちらの身にもなってほしい。
「じゃあお話します。って言っても、別に大した事じゃないんですけどね。私達はただお二人の手助けをしに来ただけなんです」
今度は俺とエミーが顔を見合わせる番だった。そんな都合のいい話があっていいのだろうか?
「あ、その顔。さては信じてませんね? 酷いなあ。せっかくステフと二人きりの時間を削って来てあげたのに」
いや、お前ら二人きりとかそうじゃないとか全く関係ないだろう。なんていう細かいツッコミをいちいち入れていると長くなってしまうので、とりあえず黙って聞き流しておく。
「え? あ、そうね。ごめんなさいリオさん。なんか恩着せがましい言い方しちゃって」
「いや、別に構わねえけど。でも『手助け』って、なんで俺たちがピンチだって知ってたんだ?」
「ええ。実はドクターから連絡があったんです。『リオネルと私の娘に危険が迫っている。できれば助けてやってくれないか』って」
ドクターの話が出た瞬間、エミーの肩がぴくんと反応した。俯きがちだった顔をあげて、正面からステファンとクロエを見つめる。
「ごめんなさい。話の途中だけど、ちょっといいかしら。あなた達に訊きたいことが二つあるの」
ゆっくりと。自分の一言一言を確かめるかのようにエミーは口を動かす。
「どうしたんですか、エミーさん。急に改まって」
神妙な面持ちで口をはさんできたエミーに対して、クロエは少し戸惑ったような顔をした。ステファンもステファンで、ハンチング帽の下にある茶色の瞳を不思議そうに細めている。
「大事な話なの。よく聞いて。……あのね、二人は私の父――クロード・マティスのことが憎くない?」
やっぱりそれか。二人の様子からしてその答えはもう出ているようなものだけど、エミーとしては一度きちんと訊いておかなくては気が済まないのだろう。
「え。エミーさんのお父さんって、ドクターのことですよね? どうして私達がドクターを憎むんです?」
やっぱり反応としてはこうなる。ドクターのことが憎いだなんて、そんな発想がそもそも俺たちには存在しないのだ。
「ドクターにはとっても感謝してますよ。私たちをちゃんと育ててくれたのもそうだし、何より今の私とステフがあるのもドクターのおかげなんです。ドクターって、私達にとってはキューピッドみたいなものですから。ねー、ステフ。うん。ほら、ステフもそうだって言ってますよ」