「ナイフ」
ここまではどこからどう見ても場末の小汚いアパートにしか見えないのだが、ポケットから鍵を出して自室のドアを開けた瞬間にそれは一変する。ピカピカに磨かれたフローリングの床、落ち着いた色合いで統一されたタイル張りの壁。そなえ付けのキッチンやユニットバスも結構きれいだ。
間取りとしては、まず玄関から入ってすぐ右手のところにキッチン。大型の冷蔵庫やリサイクルショップで買ってきた食器棚と食卓を置いてもまだ十分な広さがある。
玄関から見て左側、つまりキッチンの逆側にはバスルーム。ユニットバスではあるけどこちらも結構広くて、黒を基調とした内装も落ち着いた雰囲気で俺は気に入っている。
玄関からまっすぐに進むとリビングというか、ワンフロアしかないので寝室も兼ねた生活スペース。こちらもわりと広くて、ソファーやテーブル等の生活に必要なものを一通り置いていてもまだ床が見えている面積のほうが広い。入って左側にクローゼットがあって、その前にベッドを置いている。逆側には黒いレザーソファーと同じく黒の丸テーブル。正面にあるテレビは大きくも小さくもない二十五型を使っている。壊れにくいと評判の、外国製のやつだ。
このアパート、傍目にはボロにしか見えないが部屋の内装には結構な金がかかっている。逆に言うと、内装にこだわりすぎたからその外にかける金がなくなってしまったのかもしれない。さすがにあの廊下は軋んでいるどころかそろそろ誰かがぶち抜きそうなのでなんとかしてほしいが、扉を開けたら別世界といった感じの雰囲気が実は少し気に入っていたりする。今のところこの住まいに不満はない。
買ってきたパンを食卓の上にあるカゴに入れて、コーヒーメーカーに豆をセット。部屋着に着替えてソファーに腰を落ち着ける。コーヒーが沸くのを待つ間にテレビでも見ようかとテーブルの上のリモコンに手を伸ばしたところで、ちょうどリモコンの隣に置いてあった二つの携帯電話のうち一つが鳴った。一つが仕事用で一つがプライベート用。今鳴っているのは仕事用のほうだ。そちらを手に取り、通話ボタンを押して耳に当てる。
『仕事だ。いけるか?』
こちらが何か言う前に、いきなり低い男の声が聞こえてきた。
「詳細は?」
仕事に関する連絡はいつも簡素だ。まず場所と時間だけが口頭で告げられて、後日このアパートのポストにターゲットの写真が投函される。なんだかあまりにも無防備すぎるような気がしないでもない。たしか携帯電話というのはその気になればいくらでも盗聴できるはずだし、ポストに投函された写真を誰かに見られてしまう可能性だってあるのだが、まあそれは俺が心配することではない。俺はただ「上」の言うことに従っていればそれでいいのだ。
『いや、今回は少し特殊でな』
と。ここで予想外のことが起こった。仕事に関する会話でこんな余計な前置きが出てくるなんて初めてのことだ。嫌な予感がする。
『ある人物の護衛をやってもらいたい。期間は未定。この仕事が終わるまでは護衛対象と生活を共にし――』
「おい」
嫌な予感、的中。なんで俺がそんなことをやらないといけないんだ。
『なんだ』
「なんだじゃねえ。護衛だって? 俺、そんな訓練うけてねえぞ。やり方がわからねえ」
『ふむ。それはそうだろうが、心配する必要はない。基本的にはいつもの仕事と変わらん。護衛対象に危害を加えようとする者を事前に察知し、排除する。それだけでいい』
「簡単に言うけどな。事前に察知って、それが一番難しいんじゃねえの?」
『そうでもあるまい。要は怪しい者を護衛対象に近付けないようにすればいいだけのことだ』
本来、仕事に対して異論を唱えるなんてのは俺たちにとって許されることではない。にもかかわらずこうやって何も咎められることなくきちんと答えが返ってくるのは、やっぱり今回の仕事が特殊なのと、ひょっとすると俺の長年の功績が認められているということも少しはあるかもしれない。
「遠くから狙撃とかされた場合は?」
『そういった事は我々のほうで対処する。護衛対象はあと三十分ほどでそちらに届くから、到着し次第仕事開始だ。他に何か質問は?』
「何か質問って、ありすぎて何から訊いていいのやら……って、ちょっと待て。あんた今なんつった。『そちらに届く』とか、そんなことを言わなかったか?」
『確かに言ったな。あと三十分ほどでそちらに到着する予定だとも』
「……なあ。まさかとは思うが。違うと分かっててあえて確認するんだが。『生活を共にする』って、まさかここ――俺の部屋でじゃあないよな?」
『その通りだが、何か問題があるのか?』
「ありまくる! 拒否だ拒否! そんな仕事、誰がやるか!」
冗談じゃない。ここはやっとの思いで手に入れた安住の地なのだ。いくら仕事だからって、この部屋まで侵害されてたまるか。
『何をそんなに嫌がっているのか知らないが、もう決定事項だ。拒否は認められない』
「いや、あんた最初に『いけるか?』って訊いたじゃねえか。だから俺の答えはノー。いけません」
『それは単なる定例の文句だ。特に意味はない』
「じゃあ言うなよ! 大体――」
『ん? 少し待て。別のところから連絡が入った』
「……おい。あんた話を逸らそうとしてないか? おいってば。聞いて――って、マジで切りやがったよちくしょう」
すぐにでもかけ直したいところだが、生憎と「上」からの着信はいつも非通知で来る。今は男の言うとおりに待っている他はどうしようもない。腹が立つことこの上ないが。
「あー、もう。マジで冗談じゃねえよ」
ソファーに背中をあずけた姿勢でぼやきつつも、少し「やってしまった感」がないでもない。「上」から言われたことに逆らうなんて本来俺たちにはあるまじき行為だ。少し大げさかもしれないが、ひょっとすると俺たちの存在意義そのものを揺るがしかねない暴挙かもしれない。
命令に従わなかったらどうなるのか。前例がないのでよく分からないが、もしかしたら今後仕事が回ってこなくなるかもしれない。要するに捨てられるのだ。いや、それならばまだいい。最悪の場合は――
「おいコラ、俺。何を弱気になってやがる」
つい悪い方向に考えてしまった自分に活を入れる。ここで下手に回っては駄目だ。嫌なものはハッキリと嫌と言わないといけない。そうしなければこれから先、一生「上」の言いなりになってしまう。
とにかく、次に電話がかかってきたら何と言ってやろうか――と考えていたちょうどその時、再び仕事用の携帯が鳴った。速攻で手にとって通話ボタンを押し、先手をとるつもりでいきなり口を開く。
「おい、やっぱりできな――」
『護衛対象の到着が早まった。既に貴様の住んでいるアパートの前まで来ているらしい』
「……は?」
『もうすぐにそこへ到着する。迎えてやってくれ』
ちょっと待て、と言うヒマすらなく、まるで計ったかのようなタイミングでドアがノックされる。ドンドン、という金属のドアを叩く無遠慮な音が妙に腹立たしい。
「マジかよ。本当に来やがった」
『予定とは少しズレが生じたが問題はない。バックアップの態勢は既に整っている』
「……いや、そんな勝手に着々と話を進めんなっつーの。さっきから俺はイヤだと――」