「ナイフ」
ふらふらと幽鬼のような足取りで出て行くエミー。止めないといけないのに、何も言葉が出てこない。
エミーが部屋の外に出て、ドアが閉じられる寸前。
「さよなら」
別れを告げる四つの文字が、既に再起不能寸前だった俺を完璧に叩きのめした。
※
「――俺は」
エミーの居なくなった部屋。彼女の香りが残るベッドに寝転がって、天井の染みなんてのを数えてみたり。
「俺は、なんだ?」
彼女が持ち込んだ荷物。彼女が張ったカーテン。全部そのままそっくり残されたままだ。
「殺し屋。人殺し。異常者。確かに否定はできねえ。つーか全部事実だ」
着の身着のまま出て行ったエミー。一体どこへ行ったのか。元居た場所へ帰ったのだろうか?
「じゃあ、人を殺していない時の俺は? こうやってうじうじ悩んでいる俺は、一体どんな人間なんだ」
そもそも彼女はどこから来たのか。何故彼女は狙われているのか。前に訊いたときは「知らない」と言っていたが、今思うと本当は彼女は知っていたのではないかと思う。知っていて、話さなかっただけだろう。それとも、話せなかった?
「人間……? 俺は人間なのか?」
エミーの本名、エミリエンヌ・マティス。俺はリオネル・マティス。俺だってうすうすは気付いている。この一致が単なる偶然ではないことぐらい。
「あの人。ドクターは俺を人間だと言った。造られた存在である俺たちを、一人の独立した人間だと」
考え事と独り言の内容がようやく一致をみせる。
クロード・マティス。通称「ドクター」。あの人は、こういう時はどうすればいいと言っていたか。
「君たちはしっかりと物事を考えることのできるちゃんとした人格の持ち主です。だから、自分の思うようにやりなさい」
心の中の問いに、自らの呟きが答えてくれる。
自分の思うように。俺がしたいように。
「俺は今、どうしたいんだ?」
このまま放っておいたらエミーが危ない。それは確かだ。でも、だからといってどうなのか。
俺は何度かあいつのことを本気で心配した。あまりにも危機感がないあいつに腹を立てたし、無事な姿を確認すると心から安堵した。
「こうやってうじうじしているのが俺の望みなわけじゃない。それは確かだ」
もう一つ、ドクターがさかんに言っていた言葉がある。「時間を大切にしろ」だ。
「十秒あれば君の愛する人とキスが出来ます。一分もあれば愛を語らうことだって出来るでしょう。どこかの国に『時は金なり』という言葉があるそうですが。いいですか、君たち。時間というのはお金なんかよりもよっぽど価値のあるものだと私は思うわけです」
今思えば、呆れてしまうほど気障な台詞だ。君の愛する人。こうやってうだうだ無駄に過ごしている間に、俺は誰とキスをするはずだったのだろう。誰と愛を語り合うのだろう。
「……おい。なんでそこであいつの顔が浮かんでくるんだよ」
あいつとキスをする? あいつと愛を語り合う?
「はっ、くっだらねえ。下らなすぎて笑えてくる」
ベッドから飛び降りて、大きく伸びを一つ。二つの携帯と仕事用のボードを引っ掴んでドアの外へと勢いよく駆け出す。
「今俺は何をしたいのか。そんなの知らねえ。俺はあいつのことが気になってる。それだけで十分だ!」
アパートの外に出るまで待ちきれず、階段の途中でボードに飛び乗った。全身を包む浮遊感。物理法則を無視した加速が始まる。吹き付ける風、流れていく景色。自分の意志で飛ぶ世界がこんなにも気持ちいいなんて!
「あいつどこ行った? 分かんねえな。まあいっか、とりあえず駅へ!」
叫び出したい衝動を必死に堪えつつ、いつもの大通りへ。駅の広場で一旦ボードを降りてあちこち見てみたけど、お目当てのプラチナブロンドは見つからず。それどころかこんな夜更けだから人っ子一人居ない。
「うーん、誰かに訊いてみるってのも無理か。この時間は電車も動いてねえから、そんなに遠くには行ってない――と思いたいんだけど」
もしタクシーに乗っていたら万事休すだから、その可能性は最初から考えないことにする。携帯に掛けても繋がらないので、とりあえずもう一度ボードに乗って山のほうへ行ってみようか――と思った、ちょうどその時。
「……ん?」
夜更けだから周りが静かだというのもあるのだろうけど。やっぱり俺って、物凄く耳がいいのかも知れない。遠くから、何やら争うような声が聞こえてくるのに気がついた。
「ただのケンカかもしれねえけど。ま、行ってみるしかねえわな」
再び全力で加速。大通りに沿って声のするほう、教会などがある郊外のほうへ飛んでいく。
徐々にはっきりと聞こえ始める人の声。その中にエミーの声が混じっているかどうかはまだ判別できないけど、どうやら声の発生源はこのまま大通りをまっすぐ行ったところらしいというのはなんとなく分かってきた。
まず目に入ったのは何台かの車のヘッドライト。車種はバラバラだけど全部黒のセダンだ。
その横で黒いジャケットに身を包んだ男が数人で固まって何かをしている。誰かを取り囲むようにして立っている彼らの背中、そしてその円の中心でヘッドライトに照らされて光っているのは――プラチナブロンド!
「ビンゴ!」
姿勢を低くして戦闘態勢に入る。エミーが嫌がるだろうから、出来れば誰も殺さないように。ちゃんと手加減しないとね。
「近寄らないで! ちょっと、触らないでよ!」
ああ。ほんのちょっと離れていただけなのに、なんだかあのヒステリックな声が懐かしく聞こえる。いいね、いいね! 俺のテンション、最高潮!
「イィィィィヤッホォォォォォウ!」
抑えきれない昂ぶりを叫びに変えて、まずは男たちの頭の上を通過。そこから急激にブレーキをかけ、エミーの腰あたりを引っ掴んでかっさらう。「ひゃっ?!」とかあまり可愛くない悲鳴が聞こえたけど、とりあえずは我慢してもらって。突然の闖入者にまだぽかんとしている男たちを尻目に再上昇。エミーをお姫様抱っこの要領でしっかり抱きかかえると、何人かの男たちを突き飛ばしながら思い切り加速して包囲を抜け出す。
「え、え? なに? あ、え、リオ?」
すっかり混乱してしまっているらしく、エミーの口からは意味のある言葉が出てこない。思わずちょっと笑ってしまいながら、出来るだけ落ち着いた声で応える。
「おう。俺はリオ。おたくはエミー。オーケー?」
エミーは目をぱちくりさせて、じっと俺の顔を見つめてくる。体勢が体勢だけに、澄んだアクアマリンの瞳はかなりの至近距離。こんな時だというのに不覚にもちょっと胸が高鳴ってしまう。
「アンタ、どうして……?」
「どうしても何も。仕事だからな」
エミーの服装は初めて会った日と同じ、パープルのワンピース。ニーソックスに包まれた脚がなんだか艶かしい。スカートがはためいたりしたら俺の気が散りそうなので、わざと裾を押さえるような形で手を回す。
「ちょっと待って。今頭の中を整理するから。うーんと、ええっと」
エミーは眉間に指をあてて、必死に何かを考えているようだ。まあこの状況を考えれば混乱するのは当たり前、パニックにならないだけでも褒めてあげたいくらいだ。
「あのさ。私たち、さっきから飛んでるように見えるんだけど。気のせい?」