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B-1




「何をしているんだ!」

 あたしが呼んだ警察官がそう声を上げながら駆け寄ると、浮浪者の男に石を投げてたガキは「やべぇ!」なんて言いながら、脱兎の如く(って逃げるウサギなんか見た事無いけど)明後日の方に走って行った。

 ――――まったく、親の顔が見てみたいわ。
 なんて、SMクラブで働いているあたしの言えるセリフじゃないけど。

「大丈夫ですか?」
 あたしが声をかけると、額から血を流した浮浪者は黄色い歯をむき出して微笑んだ。
「大丈夫です。すみません、どうも」
 そう言って頭を下げた浮浪者からは、けれど安堵の色は伺えなかった。
「怖かったですね」
「ああ、いや、どうも」
 あたしがそう言っても、ぼんやりとした返事を返すだけ。あたしはこういう人間を以前にも見たことがあった。――――あたしの妹だ。
 あたしの妹は男に裏切られたショックで自分を失ってしまった。ありきたりな話だけれど、本人とってその悲しみは決してよくある痛みではなかったのだから、仕方がない。
 ある日、駅で一緒に電車を待っていると、妹はふらりと線路に落ちそうになった。あたしが慌てて妹を引きよせたので彼女は難を逃れたのだが、その時の妹の顔が今のこのおじさんの表情とよく似ていた。「ごめん、ありがとう」と言いながら、助けられた事をどこか残念に思っているようなそんな顔。
 妹はその日から三日後――手首を切ってこの世を去った。

「死にたかったんですか?」
 無意識にそんな言葉が口をついてしまった。
 妹の顔が脳裏にちらついたからに他は無く、なにもこの浮浪者の生死に興味があるわけではない。
「……いえ」
 少し逡巡したあと、否定の言葉を発した浮浪者はこう続けた。
「死んでも良かったのです。けれど生きていればまた人に蔑まれることが出来ます。ですから、感謝しています」
 マゾヒスティックな願望でも持っているのだろうかと、仕事柄そんな風に考えてしまったが、そうではないのだろう。少し話しただけにすぎないけれど、このおじさんからは何かこう犠牲心のようなものが感じられた。

「蔑まれたいんですか?」
「はは、は」
 ぼろぼろの男は力なく笑うだけだった。
 あたしの常連の客に神父がいるのだけれど、その神父はいつもあたしの事を鞭打ちながら「あなたは神です!」と叫ぶ。そうして「おお、神よ! 神よ!」なんて言いながら、これでもかとあたしの尻に鞭を打ちつけた後、たっぷりと精子を飛ばすという変態プレイに勤しむわけなのだけれど、その神父がこんな事を言っていた。「キリストは人類全ての為に己を犠牲にしたのです。ですから身を差し出すあなたは崇高です」と。
 馬鹿みたいだ。
 犠牲心なんて所詮はただの自己愛だ。ナルシスティックな絶望に酔いしれているだけじゃないか。


作品名: 作家名:有馬音文