恋を教えて
一方的な求婚
目を開いて初めて己が気を失っていたことを知る。
「ここは……?」
上質な寝台の上に少女は寝かされていた。寝台だけではない。見渡すと彼女が寝かされている部屋は、品のいい調度品が飾られている。
しかし。愛する母の加護に満たされた狭い世界しか知らぬ少女にとって、そんなものは何一つとして慰めにならない。
見知らぬ場所に一人寝かされていたという事実にただ恐怖するばかり。
――と、微かな足音が一つ。
部屋に近づいてくるらしいその主が、どうか知り合いであることを祈って入り口を振り返る。
そして現れたのは闇。
「あ……」
「――目を覚ましたか」
闇が――否、闇の化身のごとき男が口を開いた。
少女の願いは半分だけかなったのかもしれない。その顔に見覚えがあったから。けれど安心することなんてできない。
少女の中で記憶が蘇る。
白い水仙。
揺れて割れた地面。
現れた男。
そして少女へと伸びてきた手。
考えるまでもない。この男が、少女をこの地へとつれてきた。
彼女が親しんできた光の射さぬ、この地へ。
「わ、わたし……」
怯えを隠せない少女の様子に気づいて、男の表情が微かに動く。しかしそうさせた感情がなんであるのかは読み取れない。
一歩、男が足を踏み出した。
「こうして言葉を交わすのは初めてだな。デメテルのコレー」
「わたしのこと……」
「知っているさ。――予想はついているだろうが名乗ろう。我が名はハデス。この冥府を統べる者」
やはりと、コレーの心が呟く。
光の射さないこの地。母の加護深き地にあった様々な色がこの地にはなくて。
目に入るのは闇とわずかばかりの白。
そしてその闇に呑まれることなく、それどころか従えるように佇む男。
世界を知っているとは言えない少女でも分かってしまう。
ここが冥府の国であると。
気づくと、ハデスはさらに距離を詰めていた。
寝台の上にいるコレーに、手を伸ばせば届いてしまうかもしれない。
「――ど、どうして!」
気づいてしまった事実が妙に怖くて言葉を紡ぐ。
恐怖を抱きながら、それでも冥府の王を見上げた。
「どうしてわたしをこ、つれてきたのですか!?」
このようなところへ、とは言えない。相手の意図が分からないのだから、せめて不快にはさせないように。
十二神にこそ名を連ねていないものの、ハデスは三界を治める一柱――クリュメノス(名高き者)。
クロノスの御子にして天帝ゼウスの兄。ティタノマキアの戦いをも潜り抜けたタルタロスを抱く神。
コレーのような幼い神などどうにでもできる。
(母様……!)
母の優しい笑顔を思い出して勇気をかき集める。
また一歩、ハデスが足を踏み出す。その右手が動いた。
「――っ……!」
日向にあれば風に遊ばれる少女の、大地色した髪を一房手にとって。
「君を私の妻に迎えたい」
とても近い距離で囁くように告げた。
そこに宿る響きはとても真摯だった。けれどコレーは何を言われたのか、すぐには分からなかった。
「……今、なんと……?」
手にした髪を優しく手放し、姿勢を正して冥府の王は繰り返した。
「君を私の妻に迎えたい。――ゼウスの許しは得ている」
「ゼウス様が!? お、お待ちください!! わたし、わたしを地上に返してください!」
妻になどなれない。こんなところにいられない。
堪えきれない涙が少女の若葉色をした目を濡らしていく。
それを見下ろしてハデスの表情がまた少し動く。さらに唇が何かを紡ぎかけたとき――。
「ご歓談中失礼します、ハデス様」
「ラダマンティス」
「申し訳ありませんが――」
「ああ、すぐに行く」
部屋の外から男の声。
恐らくは彼の部下だろうその人物と簡潔に言葉のやりとりを済ませる。
部屋の外からはすぐに気配が消えた。
「……私は行かねばならないが……君は少し休むといい」
「冥府の王!」
言外に告げられた。帰す気はないと。
泣きそうな叫びは、踵を返した男の背にぶつかる。
「――ペルセフォネ」
「え……?」
「冥府の女王としての名を、贈ろう」
それはとても重たい鎖だと、少女には感じられた。
「わたし……わたしは、コレーです。母様の、デメテルのコレーなんです!」
帰してと、少女は泣いた。