恋を教えて
嘆きと思案の転
――コレー…わたくしのかわいいコレー。どうしてあなたは遠くに行ってしまったの?
嘆きの声。
雪が降り出し、やがて嘆きに呼応するように吹雪いていく。
――コレー、わたくしのかわいいコレー。早く花に色をつけてちょうだい。あなたがいなければ地上から彩りが消えてしまうのよ
世界は白に覆われていた。
それは冬の季節。
それは死と眠りの季節。
「……」
「ハデス様?」
不意に手を止めた主に気づき、そっと呼びかける。ハデスはなんでもないと言うように手を振った。
しかしその表情はどこか思案の色を宿している。
「予想はしていたがな……」
低い声はそっと闇に消えた。
アポロンの光が届かない冥府でも時の流れは存在する。
神の生からすればほんのわずか、しかしこれまでで一番長い「母がいない時」がまた延びたことを知り、コレーは唇を噛んだ。
「ペルセフォネ様、果物をお持ちしました」
「いらない。それにわたしはコレーよ」
ペルセフォネなんかじゃない。
身の回りの世話を任されているニンフにそっけなく返す。彼女に罪がないことは知っている。でもニンフは冥府の王の味方なのだ。
そう思うとうちとけることなどできない。
「お母様……」
こんなに長く母と離れたことなんてなかった。
母はどうしているだろうか。泣いているのだろうか。
強くて優しくて美しい母。大地をつかさどる十二神の一人。コレーの大好きな人。
けれどそんな母でも冥府の王に抗うことはできないのだ。天空の王に働きかけることは出来るかもしれないけれど。
しかしその天空の王は冥府の王がコレーを得ることを許したという。それが真実ならば期待はできない。
味方がいないこの冥府で、幼い少女神にできることなど何もない。せめてもの抵抗で、出される食事の一切を拒否することだけ。
そんなことしかできない己の無力さが悔しかった。
「失礼します」
不意に新しい声が耳に届いた。柔らかな女性の声に覚えがある気がして振り返る。
そして若葉色の目を見開いた。
「……ヘカテー?」
「お久しぶりです、コレー様」
柔らかに微笑むその女性の名はヘカテー。冥府に属するが、三界を自由に行き来する権限を持ち、また豊穣も司ることからコレーでも面識のある女神だった。
今いる場所を思えば確かにいてもおかしくはないのだが。
「どうして…?」
「冥府にはつい先ほど戻ったのです。そうしたらあなたがいて、それも泣いていらっしゃるとうかがいましたから」
そういってヘカテーは優しく微笑んだ。滑るように足を運び、そっとコレーのベッドまで近づく。
細い手が伸ばされた。
それをぼんやりと視界に納めながら、口が勝手に言葉を紡ぐ。
「ヘカテー、は、あの人の部下ということになるのよね…?」
「……」
手が一度止まる。それでもヘカテーは柔らかな笑みを崩さず、そして同じくらいにやわらかい声音で言葉を紡いだ。
「確かに私は冥界に属しています。けれど……例えばあなたを説得しろとか、そういった命は受けておりません」
「……」
若葉色の瞳が潤む。
か細い声が「あのひとの」と告げた。
「あの人の味方じゃないのなら、いいわ」
「コレー様」
ヘカテーの衣服を引っ張ってそこに顔を伏せて。
もう何度目になるかわからない涙をコレーは流した。
地上の報告を受け、男は一息ついた。
「母の愛というのは怖いな」
「白々しい、と言って差し上げても構いませんが?」
「おやおや。ここにも怖いひとが一人」
すぐ横から投げかけられた言葉に喉を振るわせた。
男の笑いが収まるのを待って女は問う。
「その様子ですと、やはり予想していらっしゃったのですね」
「なるかな、とは思っていた。ならなかったらそれは別に構わなかったがな」
「……」
「少し人間たちに謙虚さを思い出してもらう方法を考えていたんだよ。そこに我が兄上からの相談があったということだ。あの兄上が誰かを思えたということはもちろん喜ばしかったが――」
「相手の名を聞いて、もしかしたら利用できるかもしれないともお考えになったわけでしょう? 彼女がどれほどに娘を溺愛しているか、あなたはよく知っていたわけですから」
男の唇が弧を描く。それは沈黙の肯定だった。
女は少しだけ呆れてみせた。
「それで、どうなさるのです?」
「人間を滅ぼしたいわけではないからな。とりあえず地上に春を戻そう。あの娘が何も口にしていなければそれも可能だ」
そこまで言うと、男は部下――ヘルメスを呼んだ。
嘆いて地上を彷徨っている母神にも伝えてやろう。娘を地上に戻してやると。
「…さて、我が兄上、ハデス。おまえはどうする?」
妻にと望んだ娘を素直に地上に返すのか。
それとも天帝である自分の決定を覆す策を打ち出すのか。
どちらでも構わないなと、男――ゼウスは笑った。