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絵描きになる夢を捨てた理由 ~夏の少女~

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 夏休みが終わり、そしてそれと同時に北国の短い夏が過ぎ去り、木の葉は色づいた。私は講義が終わると何かにとつかれたかのように、せっせと絵を描き続けた。夏をイメージすること。青い空。青い海。が、どれもしっくりいかない。
あるときから夢の中で不思議な体験を繰り返すようになった。そこにケイコが立っているような錯覚を覚えたのだ。彼女の澄んだ瞳、果肉のような唇、見事に盛り上がった乳房、それらをまるで、自分の指でなぞったような錯覚に襲われた。それは日増しに強くなって、絵が完成する頃には、夢のなかまで現れた。それは悪夢だった。自分の意思(それは真実かどうかわからないが)とは無関係にケイコを誘惑し、そしてその衣服をはぎ取る。夢は最後の一枚を脱がそうとするところで醒める。絵が完成したとき、分かった。自分が恋していることを。
「まるで恋人を描いているかのようだ。でも、絵の才能はない。絵描きには優れた目が必要だが、君の眼は節穴だ。盲目に等しい」
ふいにケンイチが訪ねてきて、未完成のケイコの肖像画を見て、そう批評した。
「そうでもないさ」
「いや、図星だろ。君は芸術家には、向いてなんかいない。女は平気で男を欺く。化粧以上に厚い仮面をつけている。その仮面を剥ぎ取らなければ、真の顔は見えない」
「前にもいったかどうかは知らないが、真実というものに余り興味はないんだ。これが偽りだというなら、それもかまわない」
「全く頑固な奴だな。それに愚かだ」
私はケンイチを見た。彼の頬に引っ掻き傷があった。
「君のかわいい子猫に引っ掻かれたか?」
「かわいいかどうかは知らないが、雌猫に引っ掻かれた」
「ところで何しに来た?」
「頼みがある」
「どんな?」
「金を貸して欲しい」
「幾ら?」
「五万」
開いた口が塞がらなかった。暫くして、
「今、すぐには無理だ」
「いつまで待てばいい」
「三日後なら、お袋が送金してくれる。でも何の為に?」
ケンイチは困ったとき、子供が今にも泣き出しそうな顔をする。
「子供が出来てしまった」
「ケイコに? それともアキコさん?」
「何もかも言おう。ケイコだ。子供を堕すことに同意してくれた。堕したら、君のものだ」
なぜか何も言う気にはなれなかった。
「分かったよ」

金をケンイチに渡した日から、暫くケイコは大学に来なかった。ケイコの顔を見たのは、既に、色づいた木の葉が、木枯らしに散らされる秋も終わりの頃であった。
「暫く見かけなかったけれど」
「ちょっと、病気にかかって」と言葉を濁した。
「絵が出来たんだ。見にこないか?」
「いいわ、明日でも。明日は休みだし暇だから。洗濯をして。そうね、昼過ぎに」
だか、ケイコは来なかった。代わりに、アキコが訪ねてきた。来るなり、
「あの穀潰しの居所を教えてよ」
「あいにくと、穀潰しと知り合いじゃない」
アキコはよっぽど虫のいどころが悪かったのだろう。その右手で私の頬を思いっきり叩いた。一瞬、何が起こったのか分からなかった。
「どういうことだ」と大きな声で文句を言った。
「ケンイチが、これを」
アキコは泣きながら、紙切れを渡した。そこには、『もう二度と君の前に現れない』と書かれていた。
「いい話じゃないか。友達の僕が言うのも変だが、あいつはどうしょうもない女たらしだ。早く別れた方がいい」
「ちっともいい話じゃないわよ。あの穀潰しに百万円も貸しているのよ。それに、私は、アイツの子供まで堕したのに」
アキコは前より、大きな声で泣いた。
「僕も居所は分からないんだ」
「あんたも、私が水商売をやっていると思ってなめているのね?」
「落ち着いてくれ。彼の居場所を突き止めてやるから。分かりしだい教えるよ。一つだけ教えてくれ」
アキコはおとなしく耳を傾けた。
「その、何というか。まだケンイチを愛している?」
「殺してやりたいくらい愛しているわ」
「そうか、よく分かったよ」
アキコを帰した後で考えた。愛も、憎しみも、もとを辿れば同じ根から発生しているのかもしれない。そう思うと、ケンイチの心が別の女にあると知ったら、アキコがどうなるか、想像しただけでも恐ろしいものを感じた。また、彼を虜にしているのは、どんな女だろうかと想像した。ケイコだろうか? そんなはずはない。彼女をあんなにぼろくそに言いながら(実際に面と向かって言ったかどうかは知らないが)、愛せるはずはないと思った。

アキコが帰った後、偶然にもケンイチが来た。アキコが来たことを話した。
「お前、ひどい男だな」
「それは間違いない」
「いつか背中刺されるな」
「覚悟している。
「彼女は死ぬかもしれないぞ」
「それはない」
「どうして、そんなことが言える?」
「なぜなら、彼女は俺を憎むほど愛しているからだ」
「お前は二人の女を同時に妊娠させたのか?」
「悪いか?」

ケイコが私の部屋を訪れたのは、白い雪がちらつく十一月も終わるある日の昼下がりであった。
「何の用だ?」
「絵を見せてもらおうって」
「いいよ」
彼女の前に絵を出した。
「これ、展覧会に出すの?」
「出さないよ」
「なぜ?」 と、躊躇いながら答えた。
「僕の宝ものにしておきたいから」
「そう」
僕がケイコに言った、宝の物という意味を分かったかどうかは知らないが、彼女はうなずいた。
「君に聞きたいことがある」
「何かしら? とても大事なこと?」
「それはどうかな? だか、ある人にとってはとても重大なことだ」
「そう。私の答えられることなら」
ケイコはそういって微笑んだ。
「ちょっと、聞きづらいんだが。君とケンイチの関係は今でも続いているのか?」
「その質問にはノーコメントよ」
「何故?」
「何故って、それは私とケンイチの問題であって。第三者には……」
ケイコは俯きながら言った。
「それは間違っていない。でも、彼はとんでもない悪党だ。別れるなら早いほうがいい。出来るだけ早いほうが。でないと、それたけ君が傷つく。これは、幼なじみで、かつ小学校からずっと先輩であった僕の忠告だ」
「有り難う。でも、そんなことはずっと前から知っていたの。それに、私、お腹のなかにあの人の子供がいるの」
ケイコの顔を見た。それは今まで私が知ったどの顔とも違っていた。拙い表現だが、どこか 
大人びていた。
「雪だわ」
窓辺に寄って、呟くように言った。暫く、雪の降る様を見た後、振り返り、私を見つめた。私は彼女の視線を避けるようにして、
「ちょっと、聞きたいことがなるんだ」
「なあに」
「こんなこと聞くのは、変かもしれない。僕はずっと前から、君のことか好きだった。君は、僕のことをどう思っていたか、知りたいんだ」
「分からないわ」
ケイコは少し間を置いて、
「だって、好きとか嫌いとかいう前から知っていたから」
「冗談だよ、僕も君と同じ意見だよ」
私はわざと窓辺に寄り、外を見る振りをして、
「こりゃ、ひどい雪降りだ。積もらないうちに早く帰った方がいい」
私は、結局、本当に言うべきことを何も言わなかった。アキコのことも言わなかった。それに、ケイコは自分の手の届かない別の世界にいるような気がしたからである。
ケイコが帰った後、私は絵を布で覆い、押入れにしまった。