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絵描きになる夢を捨てた理由 ~夏の少女~

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「君のおふくろほど、不幸な女はいないな。義父に苦しめられ、息子の放蕩で苦しめられる」
「それは違う。何度も言っているが、僕はちょいと、早く世の中の仕組みを勉強したにすぎない。夏が終わったら、アキコとも別れる。大学にも通うつもりだ。一年位バイトしなくとも、暮らせるくらい稼いだし」
「でも、君の女遊びは治らないと思うよ。人はもって生まれたものがある。好む、好まざるに関わらず、女の方から君に寄って来る。女と関係を結びたくなかったなら、坊主になるしかない。もっとも、今の坊主ときたら、凡人より好色だという噂もあるが」
「確かに。そうかもしれない。僕の家にお祖父さんの肖像画がある。とても悲しい眼をしている。一体何が悲しいのか、今も分からない。だってやりたいほうだいやって,死んだんだぞ」
「良くはわからないが、君のお祖父さんの場合、好色は絶望の形式かもしれない」
「何に絶望したっていうんだ?」
「人生に、そして人間に。確か君は前、君のお祖父さんは一時期、左翼になったと言ったね。彼はその運動を通じて、人間の理知に疑問を持ち、疑問が絶望に変わったのかもしれない。大変な時代だったから。まともな人間は自殺するしかなかった時代だから」
それで話は途切れた。既に昼近くになっていた。私は帰った。

夏休みも終わりに近づいた頃、私は帰省した。
ケイコの家は実家の近くにあったので、帰省した三日後、彼女を訪ねた。久しぶりに夏をおもわせるような暑い日である。
「いつ帰って来たの?」
「三日前」
「随分とゆっくりなんですね」
「ずっとアルバイトして働いていたから」
「ケンイチさんと?」
「違うよ」
ケイコは私の顔をみた。
「隠さなくたっていいのに」
「隠していない」
私は笑みを浮かべた。
「大学はおもしろいかい?」
「先輩は?」
「面白いことなんかない」
「私も」
「それはケンイチが原因か?」
「関係ないわ」
「それならいい。今日、来たのは、君にモデルになってもらいたくて。駄目ならいいんだ。ちょっと君を描いたみたいと思っただけだから」
私は帰ろうとした。彼女か引き止めた。
「ヌードでないなら。いいわ」
「じゃ、明日から」
家に帰ってから、ケンイチから電話が着た。
「俺も帰っているんだ。明日、遊びに来いよ」
「駄目だ。約束がある」
「ケイコとエッチでもするのか。あの女はよせ。前にも言ったが性悪女だ。それに君と穴兄弟にはなりたくない」
「勝手にほざけ。もう用が済んだか。切るぞ」
「いや。まだだ。明後日でもいい。待っているぞ」と言って勝手に電話を切った。

翌日、スケッチブックを持って、ケイコを訪ねた。彼女は白いワンピースを着て迎えてくれた。
「そんなにおめかしなくたって。僕はそんなに上手くはないよ」
「そうじゃないの。単なる気まぐれよ。女って気まぐれなの。何の分けなしに着飾ってみたくなるの」
「そうそれならいいが。じゃ早速、ポーズをとってくれないか。椅子に腰掛けて、それからなにげなく窓の外を眺める」
彼女は言われたとおり、窓辺に椅子を置き、ポーズをとった。
「このポーズは、どう意味があるの?」
「特に意味はない」
 馬鹿受けした。大きな声を上げ笑った。
「いつもそうだった。先輩は真面目な顔して」
「真面目な顔して、何だい?」
「何でもない」
「絵の主題は希望にしようと思う。陳腐だろ?」
「そんなことない。先輩。黙って聞いてほしいことがあるの」
「どんなことだ?」
「だから、何も聞かないで。黙って聞いて。聞き終わった後も、何も聞かないって約束して」
「分かった約束するよ」
言った後で、私は笑いこけてしまった。
「何がそんなに可笑しいの」
「思わず、強情だった小さい頃の君を思い出したさ。気を悪くしたらごめん。話を続けてくれないか」
「別れたの。ケンイチさんに捨てられたわけじゃないの。私の方から別れてやったの」
「男と女の関係なんて、いつの時代も藪の中さ。真実は誰も分からない。また分かる必要もない。まだケンイチに未練はあるんじゃないのか?」
「あろうとなかろうと、そんなことはどうでもいいの。でも先輩がケンイチさんの友達なら、彼を救ってほしいの。彼は病気よ」と少し俯きながら言った。
「分かっている。でも、僕は他人がどのように生きようとちょっかいを出そうとしないことにしている。悪いけど」
「そうね。そうだったわ。忘れて、今の話は」
彼女の頬に一粒の涙が流れた。あるいは、それは強い日差しのせいで汗か流れたかもしれなかった。もしも涙なら、今にもすぐに抱き締めてやりたい衝動にかられたか、体は動かなかった。それから、二、三時間は沈黙したまま、スケッチを続けただろうか。夕焼けが窓を染めた。
「終わったよ」
「見せて」
彼女にスケッチを渡した。
「きれい。私じゃないみたい」
「君さ。本物はもっときれいだ」
「口がうまくなったね。そうやって、女を口説いているじゃないの?」
「そうだといいんだけど。じゃ、帰るよ。絵は冬まで完成させるつもりだ」

ケンイチの家は海辺の町にあった。彼の家を訪ねたのは、五年の一度きりである。
「立派な家だ。さすが庄屋の家だ。タイムスリップして少なくとも五十年は過去に戻った感じだ」
「ここの二階から海が見えるんだ。なかなか捨てがたい眺めだ」
彼は二階に案内した。少し靄がかかっているような青い海か観えた。
「絵になるか?」
「僕は芸術家じゃないから分からないよ」
「でも、芸術家になるつもりじゃないのか?」
「一度もそんな話をした記憶はないが。いったい誰から聞いた?」
「まあ、どうだっていいじゃないか」
ケンイチから、家の古い写真や絵や骨董品を見せてもらった。なかんずく私の興味を引いたのは、彼の祖父の写真と彼の日記である。余りにも、ケンイチに酷似していた。
「歴史は繰り返すっていうだろ。本来、歴史は二度と同じことは繰り返さないはずだ。なぜなら、二度と同じこと状況をつくり出すなぞ不可能だ。にもかかわらず、あたかも同じようなことを繰り返す。これをどういうふうに理解すればいいのか?」
「分からないね。歴史って奴は。ただ、人間が過ぎ去った時を歴史という言葉で括っているにすぎないかもしれない。そこにどんな法則があるというんだ。あったとしても、過去の事実を比較して何の意味があるというんだ」
「意味? 君は実に科学的なことを的確に言う」
「厭味か?」
「そうじゃない。自分でも何が言いたいのかよく分からない。一つ教えてくれ。何もかもが意味を持たなければいけないのだろうか?」
「難しい質問だ。回答不可能だ」
そのとき、ケンイチの母が、夕食の支度ができたことを告げにきた。ケンイチの母についていくと、広い部屋に小さなテーブルが置いてあった。
静かな食事である。時折、ケンイチの母を観察した。昔なら、きっと美人だったに違いないことが分かった。高い鼻、長い睫毛、それらがかえって、今の苦労のせいで痛々しく、まるで傷跡のように感じられた。