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絵描きになる夢を捨てた理由 ~夏の少女~

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店は午後七時に開き、午前一時に閉まる。店が閉まると、ケンイチ、店のホステスのアキコ、そして私の三人で夜明けまで飲んだ。話題の始まりはいつも違っていたが、終わりはいつもセックスの話であった。アキコは我々より、一歳しか歳が違わないのに、セックスの経験も知識も比較にならないほど豊富だった。まるで先生のように教えてくれた。ふと、気付くと、三人というよりも、ケンイチとアキコの二人で話していることがしばしばあった。二人がただならない関係であることもすぐに分かった。
ケイコと別れたという話も聞いていなかったので、都合のいいように、片方でケイコを、もう片方でアキコ。そんな二股関係を続けるケイイチの不誠実に怒りを募らせ、とうとう問いつけることにした。
店が終えた後、いつのように三人で飲んだ後、夜明けの町をケンイチと二人で歩いた。行きかう人はない。死んだ静けさだった。
「ケンイチ、君に聞きたいことがある」
私は立ち止まった。
「歩きながら出来ないか?」
「出来ないこともない。でも、真面目な話だ。ちゃんと聞いてほしいんだ」
「ああ、分かった」
彼はかなり泥酔していた。返事もどこか虚ろであった。
「君はケイコとどういう関係にある?」
「君に答える必要があるのか?」
彼は睨んだ。
「必要があるとは言えない。だが、どういうつもりだ。片方の手でケイコを抱き、もう一方の手でアキコを抱くなんて」
「破廉恥だと言うのか。そうかもしれないが、アキコには何の感情も抱いていない。アキコは僕にとって先生だ。手取り足取り、大人の愛し方を教えてくれているだけだ。そんな仏張面しないで。歌わないか? 気持ちがいいぞ」
「遠慮するよ。君が歌えば」
彼は大声で歌った。うまかった。私はおどけて拍手した。すると、警察官が自転車で向かってきた。
「こら、そこの二人! うるさいぞ!」と叫んだ。
「馬鹿野郎」
彼はそういって、石を拾い、警察官に向かって投げた。警察官が急いでこっちに向かってきた。彼は走った。私も彼の後を追った。どれだけ走ったことだろう。二人とも激しく息をし、滝のように汗を流した。
「なんだって、あんな馬鹿な真似をしたんだ」
彼は笑みを浮かべながら、「ちょいとからかっただけさ。田舎の警察はろくすっぽ事件なんかないから、ちょっぴり刺激を与えてやった。今頃、汗を拭きながら、きっと感謝しているぜ」
「そいつはどうかな? きっと、今頃の君の似顔絵を書いて貼り出しているぞ」
「そうだ、これから、おれんちに来いよ。とびきり上等な酒を飲ましてやる」
彼のアパートは安っぽい家に囲まれていた。
「迷路だらけで、もう一度、来い、と言われても、来られないな。それに幽霊が出そうだ」
「酔っているせいさ。幽霊なんかいるものか。悪党なら、いるがね。ここの住人は、言うなれば、みんな、はみ出し者だよ。怪しげなキャバレーに勤めている三十過ぎの女、家族から見捨てられた老人、麻薬中毒にかかっているような目付きの悪いヤクザ、まとなの俺くらいさ」
私は彼の顔をじっと見た。私も彼も大声で笑った。
「しっ、静かに。隣でもうじき面白い劇が始まる」
「劇? なんだい?」
彼はいわくありげな笑みを浮かべた。
「実に陳腐で、それでいてわくわくするような、人間とは何たるものか教えてくれる劇さ。君が読んでいる化学のテキストより、ずっと真実を教えてくれる。最も素面じゃ見られないが」
彼は押入れを開け、押入れの二階に上がり、天井の板を外し、手招きした。
「見ろ、だが、声は立てるな。観客としての最低のマナーだ」
隣の天井板に二つの穴が開いている。その穴から隣の部屋の様子が分かるのだ。私と彼はその穴に顔を近づけ、隣の部屋の様子を窺った。
女が下着姿で寝ている。顔は悪くない。が、どう見たって二十代には見えない。暫くすると、男が部屋に入って来た。男は明かりをつけ、服を脱ぎ、女を起こした。
「この女は、男を立たせるのが実に上手いんだ」
ケンイチが耳元でそっと囁いた。
「男を立たせるって? どういう意味だ」
私はケンイチに問うた。
「しっ。その小さな目をいっぱい拡げてみれば分かる」
女は明かりを消し、下着を脱いだ。
夏の朝日が薄いカーテンを透かして部屋を明るくしているので、おおよそのことが分かった。
女と男は抱き合い、長い時間、唇を重ねながら、互いの体を触った。それはポルノ映画を見ているようだが、どこか微妙に違っているような気がした。
「いよいよ、始まるぜ」
ケンイチがまた、耳元で囁いた。
女は男の上の馬乗りになって、奇声を発しながら、激しく体を上下に動かした。男は女の乳房を揉んでいた。やがて、女は動きを止め、男の体の上に倒れた。
ケンイチが肩を叩いた。
「もう終わりだ」
ケンイチは押入れを閉めた。
「隣の男はヤクザで、女を食いものにしているヒモだ。見つかると半殺しにあう」
「どう見たって、すけべなサラリーマンにしか見えなかったけれど」
「ふん、君はまだ、世の中のことを知らない。ここはどんな学校より多くのことを教えてくれる」
ケンイチはコップを取り出し、ウイスキーを注いだ。
「酔いが醒めただろ。飲み直そう。ロックでいいだろ。エッチな劇を観た後は、何故か真面目な話をしたくなる。付き合え」
ケンイチは命令調に言った。私は頷いた。
「君はエッチをしたことがあるか?」
私は首を振った。
「でも、それが真面目な話とどういう関係があるんだ」
「怒るな」
「怒ってなんかいないさ」
「怒っている。眼をみれば分かる。が、この話を止めよう。本題じゃないからな」
私はどんな場合でも怒らないことをモットーにしてきたが、そのときは妙に腹ただしかった。
「おいおい、そんなにウイスキーをガブ飲みしちゃ、体に毒だ」
「飲めと言ったのは、確か君のはずたが」
「確かに。君はいつも正しい。だから、僕は君を尊敬しているし、好きだ」
「君に好かれたって、さほど嬉しくはないが……」と言いかけると、
「どうぜなら、ケイコに好かれたいだろ? だか、君は人を見る眼がない。彼女はまだ十九なのに、三十過ぎの性悪女よりあばずれだ。人は見かけによらない。彼女に近づかない方がいい。毒味をしたが、たいして美味くもない。何より頭の中はピーマンより空っぽだ。体も顔も見かけは良いが」
「君は神になったつもりか?」
「神? 君はそんなもんを信じているのか」
「信じているわけではないが……」としどろもどろになった。
 ケンイチはにやりと笑い、「でも、俺は神を信じているぞ。特に女と一発やった後なぞ、天に向かって感謝の言葉を発したいくらいだ。僕は何故、西洋の人間が深くキリストを信じるか分かるよ。人間っていう動物はセックスした後では、神に感謝し、人を傷付けたりした後では、神に懺悔したくなる。彼らほど、残虐で姦通が好きな人種はいない。でも、それが人間の本性なんだ」
「それは経験から学んだことか。それとも、西洋史を真面目に勉強した成果か」
「その両方だよ」
「嘘をつけ。三年になってから、まともに授業を受けていないだろ? おふくろさんが知ったらどんな顔をすることか」
「おふくろの話はするな。今は思い出したくない」