絵描きになる夢を捨てた理由 ~夏の少女~
『絵描きになる夢を捨てた理由』
ふとしたきっかけで、遠い記憶を呼び起こされることがある。家の改築の際に屋根裏から一枚の絵が出てきた。その絵は、私が画家を目指そうとした記念碑だ。十年も昔のことなのに、昨日のことのように思い出される。 時というものは、過ぎ去ると、そこにあった苦いものは薄れ、全てを懐かしい思い出に変えてしまうようだ。
その絵は一人の少女を描いたものだった。夏の日の昼下がり、窓から混じりけのない青い空をぼんやりとみつめる少女。その日は、少し風があった。少女の長い髪が揺らめいている。何か遠くを見ているような透き通った瞳をしている。
……遠い昔のことなのに、まるで昨日のことのように蘇る。
学生時代に一人の友がいた。彼の名をケンイチといった。彼の家は、戦前(この言葉は死語になりつつあるが)は地主であったが、戦後の革命的な農地開放によって一介の百姓に転落した。悪いことに重なるもので、戦後直後の当主であった彼の祖父が、大の色好みで残り少ない財産を散在し、そのうえ二人の女に十二人の子供をつくらせた。祖父の後継ぎの父は、ろくすっぽ学校に行かせてもらず、少年の頃より働き蜂のように働かされた。そのせいか、ケンイチが十五のとき死んだ。その後は母の手、一つで育てられた。そんな彼と知り合ったのは、大学一年のときだ。
共に大学の寮に入り、同室であった。 彼は私と違い、溌剌としてはっきりと物事を言った。また若者らしく陰りというものがなかった。外国人のように彫りが深く、美男子であった。まるで自分を正反対にしたような男だった。
私は理系に在籍していたが、将来は画家になりたいという夢を抱いていた。出来れば、クロード・モネのような絵を描く画家に憧れていた。
ケンイチは法学を学ぶ学生であった。私とは、学ぶものが全く別であったが、その方がかえって良かった。ともに知らない分野を教えあうことができたから。一緒に起き、一緒に自転車で大学まで通い、また一緒に寮に戻ってきた。ときおり道草をしながら。
あれはいつのことであろうか。桜が咲いていた頃だ。大学の近くを流れる広い川の両岸に植えられた桜並木が、見事に花開きあたり一面に甘酸っぱい香りで漂わせていた。その桜並木の下で、彼は真面目な顔で言った。
「前に話しただろ。祖父のこと。父を苦しめ、母を苦しめた祖父のことだよ。時折、鏡を見ていると、自分の顔が似ているように思えるんだ。もっと悪いことに夢の中では、その祖父が自分なんだ。そして、夢の中では狂ったようにセックスをしている」
「いい話じゃないか。子孫繁栄に励めという神の啓示かもしれない」
「冗談じゃない。それを母が見ていた」
「何を見ていたというのだ」
「余計なことを聞くな」
私は大いに笑った。おかげで彼は気を悪くし、結局、彼の何を言いたかったのかは分からずじまいであった。
ケンイチに恋人ができたせいか、前のように親しく言葉を交わすことがなくなった。
夏も始まろうとする七月の終わり。図書館で調べものをしているときだ。
「君に頼みがあるんだか」と背後から声がしたので、振り向くとケンイチが立っていた。黙って彼を見ていると、
「ここじゃ話にくい」
「静かすぎるか?」
「ああ、少し」
「じゃ出よう」
私は大学の近くの喫茶店に誘った。歩いて十分位のところにある。
「君のなじみかい?」
うなずくと、「ここはあんまり学生が来ないんだ、本を読むにはちょうどいい」
私はここで専門分野とは関係のない本をここで読んだ。とりわけ哲学、主に西洋哲学に関する本、歴史に関する本などである。
「勉強なら大学で出来るじゃないか?」と彼は言った。
「大学以外の勉強さ、ところで何だい、頼みというのは?」
「ちょっと休ませてくれ。盆地は暑いな。まるで地獄みたいだ。風もない」
「そうかもしれない」
「君は青木ケイコを知っているか?」
「うちの学部の?」
「確か君と噂があったね」
「それは亊実だ。そして君の幼なじみでもある」
「彼女に何か?」
「率直に言おう、別れたいんだ。助けてくれ」
「何故?」
「飽きた」
「飽きた? それだけで」
「それだけさ」
「だったら断る」
私はその後の言葉が続かなかった。はっきりいって彼に幻滅したが、必要以上に詮索しないし、口も出さない。それが自分の信条であった。
「そう言うと思っていた。でも、俺の女好きは遺伝だよ。それより、僕の口から頼むのも可笑しいが、彼女の力になってほしい。彼女はとても君のことを尊敬しているから」
彼は笑った。その笑いはにやけているようにしか映らなかった。
青木ケイコは幼なじみであり、小学校以来ずっと後輩であった。天は二物を与えず、という言葉があるが、彼女には、あてはまらなかった。彼女は美人で賢かった。
数日後、今度はケイコから声をかけられた。
「先輩、相談があるんです。時間がありますか?」
「時間がなら、腐るほどある」
私達は大学構内を出た。既に夕暮れが迫っていた。そして大学の側を流れる川辺を歩いた。長らく沈黙が続いた。沈黙を破ったのは、ケイコだった。
「先輩は大学を出たら、何をするんですか? 学校の先生。それとも、大学院へ?」
「残念ながら、そのいずれでもない」
「サラリーマン?」
「それも外れている。科学の世界から離れ、絵の勉強をしなおそうと思っている」
「絵の勉強はし直す必要なんかないわ。小さい頃から上手かったもの。きっと成功するわ」
「絵がうまいということと才能があるということは違う。僕はクロード・モネのような絵に憧れていた。彼を真似た。彼の伝記も読んだ。だが、知れば知るほど、遠い存在であることが分かった。そればかりか、自分に才能がないのではないかとさえ思っている。望みは薄いかもしれないが、可能性は全くゼロではないはずだ。その微かな望みにかけたい」
私は一歩彼女の前を出て、そして振り向いておどけて見せた。彼女は笑った。
「面白い」
彼女は笑った。
「人生は意外性の塊なんだよ。僕はその意外性に賭けたいんだ。人は大人になると、疲れて不確かなものには賭けない。僕はそういった大人になりたくないんだ。……君には、その笑顔が会っている」
彼女は立ち止まった。
「私は、小さい頃から学校の先生になることか夢だったんです」
「そういえば、高校の頃もそう言っていたな」
彼女はうなずいた。
「でも、今、自分がどうしたらいいのか分からないんです。夢が味気ないものに見えてきたんです。きっと……」
彼女の言葉が続かなかった。
「何もかもが全て理解できると思うのは、傲慢だよ。たとえ自分自身のことであっても」
私は彼女の顔を見なかった。見るのか怖かったからである。
「そうだ。バイトがある。また次の機会に話そう」
結局、彼女とはそれっきりだった。何を相談したかったのか分からずじまいだった。
ケイコとケンイチは別れなった。そればかりか、同棲とまではいかないが、ケンイチはよくケイコの部屋に泊った。そんな二人の様子を遠くから見て、勝手に仲直りしたものと勘違いした。
夏、私はケンイチ誘われ、水商売のアルバイトをすることになった。
ふとしたきっかけで、遠い記憶を呼び起こされることがある。家の改築の際に屋根裏から一枚の絵が出てきた。その絵は、私が画家を目指そうとした記念碑だ。十年も昔のことなのに、昨日のことのように思い出される。 時というものは、過ぎ去ると、そこにあった苦いものは薄れ、全てを懐かしい思い出に変えてしまうようだ。
その絵は一人の少女を描いたものだった。夏の日の昼下がり、窓から混じりけのない青い空をぼんやりとみつめる少女。その日は、少し風があった。少女の長い髪が揺らめいている。何か遠くを見ているような透き通った瞳をしている。
……遠い昔のことなのに、まるで昨日のことのように蘇る。
学生時代に一人の友がいた。彼の名をケンイチといった。彼の家は、戦前(この言葉は死語になりつつあるが)は地主であったが、戦後の革命的な農地開放によって一介の百姓に転落した。悪いことに重なるもので、戦後直後の当主であった彼の祖父が、大の色好みで残り少ない財産を散在し、そのうえ二人の女に十二人の子供をつくらせた。祖父の後継ぎの父は、ろくすっぽ学校に行かせてもらず、少年の頃より働き蜂のように働かされた。そのせいか、ケンイチが十五のとき死んだ。その後は母の手、一つで育てられた。そんな彼と知り合ったのは、大学一年のときだ。
共に大学の寮に入り、同室であった。 彼は私と違い、溌剌としてはっきりと物事を言った。また若者らしく陰りというものがなかった。外国人のように彫りが深く、美男子であった。まるで自分を正反対にしたような男だった。
私は理系に在籍していたが、将来は画家になりたいという夢を抱いていた。出来れば、クロード・モネのような絵を描く画家に憧れていた。
ケンイチは法学を学ぶ学生であった。私とは、学ぶものが全く別であったが、その方がかえって良かった。ともに知らない分野を教えあうことができたから。一緒に起き、一緒に自転車で大学まで通い、また一緒に寮に戻ってきた。ときおり道草をしながら。
あれはいつのことであろうか。桜が咲いていた頃だ。大学の近くを流れる広い川の両岸に植えられた桜並木が、見事に花開きあたり一面に甘酸っぱい香りで漂わせていた。その桜並木の下で、彼は真面目な顔で言った。
「前に話しただろ。祖父のこと。父を苦しめ、母を苦しめた祖父のことだよ。時折、鏡を見ていると、自分の顔が似ているように思えるんだ。もっと悪いことに夢の中では、その祖父が自分なんだ。そして、夢の中では狂ったようにセックスをしている」
「いい話じゃないか。子孫繁栄に励めという神の啓示かもしれない」
「冗談じゃない。それを母が見ていた」
「何を見ていたというのだ」
「余計なことを聞くな」
私は大いに笑った。おかげで彼は気を悪くし、結局、彼の何を言いたかったのかは分からずじまいであった。
ケンイチに恋人ができたせいか、前のように親しく言葉を交わすことがなくなった。
夏も始まろうとする七月の終わり。図書館で調べものをしているときだ。
「君に頼みがあるんだか」と背後から声がしたので、振り向くとケンイチが立っていた。黙って彼を見ていると、
「ここじゃ話にくい」
「静かすぎるか?」
「ああ、少し」
「じゃ出よう」
私は大学の近くの喫茶店に誘った。歩いて十分位のところにある。
「君のなじみかい?」
うなずくと、「ここはあんまり学生が来ないんだ、本を読むにはちょうどいい」
私はここで専門分野とは関係のない本をここで読んだ。とりわけ哲学、主に西洋哲学に関する本、歴史に関する本などである。
「勉強なら大学で出来るじゃないか?」と彼は言った。
「大学以外の勉強さ、ところで何だい、頼みというのは?」
「ちょっと休ませてくれ。盆地は暑いな。まるで地獄みたいだ。風もない」
「そうかもしれない」
「君は青木ケイコを知っているか?」
「うちの学部の?」
「確か君と噂があったね」
「それは亊実だ。そして君の幼なじみでもある」
「彼女に何か?」
「率直に言おう、別れたいんだ。助けてくれ」
「何故?」
「飽きた」
「飽きた? それだけで」
「それだけさ」
「だったら断る」
私はその後の言葉が続かなかった。はっきりいって彼に幻滅したが、必要以上に詮索しないし、口も出さない。それが自分の信条であった。
「そう言うと思っていた。でも、俺の女好きは遺伝だよ。それより、僕の口から頼むのも可笑しいが、彼女の力になってほしい。彼女はとても君のことを尊敬しているから」
彼は笑った。その笑いはにやけているようにしか映らなかった。
青木ケイコは幼なじみであり、小学校以来ずっと後輩であった。天は二物を与えず、という言葉があるが、彼女には、あてはまらなかった。彼女は美人で賢かった。
数日後、今度はケイコから声をかけられた。
「先輩、相談があるんです。時間がありますか?」
「時間がなら、腐るほどある」
私達は大学構内を出た。既に夕暮れが迫っていた。そして大学の側を流れる川辺を歩いた。長らく沈黙が続いた。沈黙を破ったのは、ケイコだった。
「先輩は大学を出たら、何をするんですか? 学校の先生。それとも、大学院へ?」
「残念ながら、そのいずれでもない」
「サラリーマン?」
「それも外れている。科学の世界から離れ、絵の勉強をしなおそうと思っている」
「絵の勉強はし直す必要なんかないわ。小さい頃から上手かったもの。きっと成功するわ」
「絵がうまいということと才能があるということは違う。僕はクロード・モネのような絵に憧れていた。彼を真似た。彼の伝記も読んだ。だが、知れば知るほど、遠い存在であることが分かった。そればかりか、自分に才能がないのではないかとさえ思っている。望みは薄いかもしれないが、可能性は全くゼロではないはずだ。その微かな望みにかけたい」
私は一歩彼女の前を出て、そして振り向いておどけて見せた。彼女は笑った。
「面白い」
彼女は笑った。
「人生は意外性の塊なんだよ。僕はその意外性に賭けたいんだ。人は大人になると、疲れて不確かなものには賭けない。僕はそういった大人になりたくないんだ。……君には、その笑顔が会っている」
彼女は立ち止まった。
「私は、小さい頃から学校の先生になることか夢だったんです」
「そういえば、高校の頃もそう言っていたな」
彼女はうなずいた。
「でも、今、自分がどうしたらいいのか分からないんです。夢が味気ないものに見えてきたんです。きっと……」
彼女の言葉が続かなかった。
「何もかもが全て理解できると思うのは、傲慢だよ。たとえ自分自身のことであっても」
私は彼女の顔を見なかった。見るのか怖かったからである。
「そうだ。バイトがある。また次の機会に話そう」
結局、彼女とはそれっきりだった。何を相談したかったのか分からずじまいだった。
ケイコとケンイチは別れなった。そればかりか、同棲とまではいかないが、ケンイチはよくケイコの部屋に泊った。そんな二人の様子を遠くから見て、勝手に仲直りしたものと勘違いした。
夏、私はケンイチ誘われ、水商売のアルバイトをすることになった。
作品名:絵描きになる夢を捨てた理由 ~夏の少女~ 作家名:楡井英夫