夢の館
第四節 死の舞踏
紅い口紅で描かれた夢物語。
仲むつまじい家族の情景。
父と母の間に挟まれ、両の手を優しく繋がれた幼い子の姿。
そこへ現れる一匹の魔獣。
炎を身に纏う魔獣が、紅玉の眼を輝かせながら、全てを呑込んでしまう。
嗚呼、どこかで舞踏会の音楽が聴こえる。
「……夢……を見ていたのか?」
ベッドに横たわりながら、Aは天井を眺めた。
記憶は未だ戻らず、今見たばかりの夢のことすら思い出せない。そう言えば、昨日も夢を見たような気がする。おぼろげに、どちらも嫌な夢であったと、微かに不快感が残っているのみ。
マスク……そうだ、昨日はなぜか部屋に戻ってきた途端に睡魔に襲われ、このマスクを外すことすら忘れていた。今ならば誰も見ていない。
隠された素顔。
もしも、素顔を見たとき、なにも思い出せなかったら?
恐ろしい、それほど恐ろしいことがあるだろうか。それならば、いっそのことマスクを外さない方がよいのではないか。
しかし、内から沸き上がる衝動を抑えることは出来ない。
なにか、そう、鏡になるような物はないだろうか?
生憎、この部屋には鏡やそれに属する物はない。ご丁寧なことだ、それほどまでに素顔を見せたくないのか。やはり、見なくてはならない。
窓がある。夜ともなれば鏡の代わりになるが、まだ陽が高く映りが悪い。だが、微かに写るその姿でも……見たい。
Aは窓の前に立ち、マスクに恐る恐る手を伸ばした。
「なぜだっ!」
嗚呼、なんということだ。Aは叫び声を上げた。
想像もしていなかった。
マスクが、マスクが外れないのだ。
まるで皮膚の一部となってしまったかのごとく、外そうとしても痛みが走るほどに密着している。
「どうして、どういうことだッ!」
やはり、これは決定的だと言わざるを得ない。
疑念が確証へと変る。
ただ、それは悪意なのか、敵意なのか、それとも別の何かか。
「崖から落ちただと……信じられるかそんなこと。どうして僕は記憶を失ったんだ!」
Gに話を聞く必用がある。あの男はいったい何者なのだ。あの男だけではない、この屋敷にいる全ての人間だ。
崖から落ちて気を失ったというのに、無傷というのも信じられない。怪我をしたというGのあの包帯も偽装ではないか、全て作り話なのではないか。
嘘偽りならば、そこには理由がある筈だ。
「……落ち着け」
そう、慎重にならなくてはいけない。
?相手?の目的がわからぬうちは、軽はずみな行動は控えなければ。
Aは着替えを済ませ、平静を整えると部屋を出た。
まずはGの部屋に向かうことにしよう。もう昨日の酔いも覚めている筈だ。
廊下に出てしばらく歩き、階段まで差し掛かると、テラスの方から何やら騒がしい音が聞えてきた。
不審に思いながら階段を下りずにテラスへ向かうと、騒がしさは下から聞えてくるようだった。身を乗り出して庭を覗くと、そこには――。
「……まさか」
地面に不自然な格好で横たわるGの姿。
その近くには召使いたちやJが人だかりとして集まっているようだった。明らかに事故の様相を呈している。
「いったい何があったんだ!?」
Aの声に気付いてJは、シルクハットを傾けテラスに顔を上げた。「事故のようだね。可哀想にすでに死んじゃってるよ」
「死んでるだって!?」
驚きのままAはテラスを後にして、わき目もふらずに現場へ駆けつけた。
テラスの真下はエントランスを出てすぐの場所だ。つまり、外に出掛けるか、もしくは訪問者があった場合、嫌でも目につく場所。
Gは石床に仰向けで倒れていた。後頭部の辺りから血が出ているのか、頭は朱の海に沈んでいる。そして、顔はハンカチで隠されていた。
「このハンカチは?」
Aが尋ねるとすぐにJが返した。
「ボクが置いた物だよ、あまり良い死に顔とは言えなかったものでね」
果たしてどのような死相を浮かべているのか?
恐る恐るAはハンカチを捲り上げ、その形相を確認した。
「……っ!」
思わずたじろぐA。
いったい彼は死に際に何を見たと言うのだ。まるでそれは悪魔でも見たかのような醜悪な形相で死んでいた。
「なんでこんなことに……」Aは沈痛な表情で頭を抱えた。
「さあ、だいぶ酔っていたようだから、それで誤ってテラスから転落してしまったのだろうね」Jはそう言うが、この形相はどうやって説明するのだ?
ほかにも少し疑問な点がAにはあった。
「発見したまま誰も動かしていないのですか?」
「ボクが第一発見者だけど、ハンカチを掛けただけでほかは一切いじっていないよ。それ以前のことは知らないけどね」
屍体を発見して、周りに知らせたのはJだったらしい。
うつ伏せではなく、仰向けの屍体。酔っていて落ちたのだとしたら、どのような格好で転落したと考えても不思議ではないのだが……。
「警察には知らせたのですか?」尋ねながらAは周りの人々を見回した。
「そんな必用がどこあって?」
マダム・ヴィー、そのルージュから発せられた言葉だった。
今日もその素顔を隠し、ただ一箇所――魅惑的な唇だけがこの世界に姿を見せている。
自ら日傘を差すマダム・ヴィーは、召使いに車椅子を押させ、すぐ屍体の近くまでやって来た。
「嗚呼、なんという悲劇。転落事故から奇跡の生還をしたというのに、まさか酔って身を滅ぼすとは……可哀想な?事故?」
まるで舞台女優のように、マダム・ヴィーは芝居がかった仕草と口調で悲しんで見せた。それがAには引っかかって仕方がなかった。
「しかし、事故だとしても警察に連絡する必用はあるのでは?」
「おほほほっ、人里を離れたこの屋敷まで、ただの事故で警察にご足労を掛けるなど申し訳ないわ。事を大事にする必用など、どこにもないのよ。わたくしが責任を持って手厚く埋葬いたしますわ」
「しかし、彼は僕の友人であって――」
Aの言葉を遮るようにJが割り込んできた。
「マダム・ヴィーがそうおっしゃるなら、すべてお任せしようじゃないか。ボクらは客人なのだから、面倒なことをする必用はないさ」
「…………」
押し黙ったAは孤独を感じた。Jがマダム・ヴィーの肩を持ったように感じたのだ。
やはり誰も信じることはできない。
言葉や行動などいくらでも偽れるのだ。だとするならば、Aはもう少しGの屍体を調べたかったのだが。
「さあ、早く屍体を片付けて頂戴」主人の命令によって、召使いたちが素早く屍体を運んで行ってしまった。そのときの口調は、まるで?邪魔よ?と言いたげなものに感じられた。
AはGの死に不信感を持っていた。決め手となる理由はないが、この屋敷でのことすべてが疑わしいのだ。故に、なにが起きても不信感を抱いてしまう。例え本当に事故死だったとしてもだ。
なにを信じていいのかわからない。その中で、Gの言葉が本当だったとするならば、Aの正体を知る人物を失ってしまったことになる。これは大きな痛手である。
Gの死というあまりの衝撃で、大事なことを忘れていたが、Aはあのことをマダム・ヴィーに問い詰めることにした。
「マダム・ヴィー、お尋ねしたいことがあるのですが?」
「なにかしら?」
作品名:夢の館 作家名:秋月あきら(秋月瑛)