夢の館
第三節 Jの視線
七時ちょうど、全員が食卓に着くと料理が次々と運ばれてきて、マダム・ヴィーの合図で食事がはじまった。
若者は料理に目もくれず、マダム・ヴィーに話しかけた。「まだ目が覚めたばかりで困惑す
ることばかりです。大変申し訳ないのですが貴女のこともよくわかりませんし、実を言うと事
故のこともよく覚えていないのです」
なぜかマダム・ヴィーの唇が微笑みを浮かべた。「あんな事故に遭ったのだから無理もないわ」
「あんな事故?」
「狩猟の最中、崖から転落したのですわよね、G?」マダム・ヴィーはGに顔を向けた。
「マダム様の言うとおり。獲物に気を取られた俺が崖から足を滑られて、助けようとしたお前といっしょに落ちちまったってわけさ」
間髪入れずマダム・ヴィーが続ける。「そこへわたくしの召使いが偶然通りかかり、意識を失い怪我をした貴方たちを見つけたということよ」
筋は通っている。
しかし、記憶を失っている若者としてみれば、どんな説明を受けても確信は得られない。
今はより多くの情報を手に入れ、記憶を呼び起こす手がかりにするほかあるまい。
「僕たちを見つけてくれた方に礼を言わねばなりませんね」
「うふふふ、召使いに礼だなんて、おもしろいことを言うのね」一笑したマダム・ヴィー。
若者は相手の地位に関係なく、命の恩人に礼を尽くすのは当然だと思いながらも、あえて反論は控えた。
「しかし、事故のことを詳しく知りたいので、その召使いに会いたいのですが?」
「どの召使いだったかしら……あとで話を付けて置くわ」
おそらく彼女にとって召使いは皆同じ、そのためにどの召使いが何をしたかなど、覚えてもいないのかもしれない。
「ありがとうございます」若者は礼を言い、「ところで、この屋敷には僕とG以外にも何人か客人がいるようですが、いったい何の集まりなのでしょうか? 部外者の僕らがいてはお邪魔なのではないかと」
「気にしなくていいのよ。集まりなんてたいそうなものではないわ。ただの静養で訪れているだけなのだから……」
マダム・ヴィーの言葉には含みがあるような気がする。
赤ワインを片手にJが話に割り込んで来た。「マダム・ヴィーの言うとおりさ。ここはいつでも客人を歓迎してもてなしてくれる。おかしなルールもあるけど、ほんのお遊びのようなものさ」
おかしなルール――マスクやアルファベットの名前のことだろう。そう言えば、若者にはまだアルファベットが付けられていなかった。
マダム・ヴィーはそのことを思い出したらしく、「そうだわ、まだ貴方には名前がなかったわね。そうね、Aなんてどうかしら、貴方にぴったり。それ以外に考えられないわ、Aに決めましょう。今このときから、貴方はAよ」
――A。
マダム・ヴィーの独断で決められたアルファベット。何を理由にAと名付けられたのか、それはマダム・ヴィーのみが知るところだろう。
Aと名付けられた若者。記憶を失い本当の名前すら思え出せない彼には、仮の名前が与えられることはちょうどよい。決め事があれば本名を尋ねられることもなく、それによって口ごもる心配もないだろう。
しかし、「改めてよろしく?A?」とJに挨拶されたが、Aになったばかりの若者は反応に遅れてしまった。
「ああ、僕のことか。まだ慣れないモノで申し訳ない。こちらこそよろしく」
AとJはワインを酌み交わした。
さらにマダム・ヴィーが祝杯をあげる。
「名前も決まり、正式な客人としてAを迎え入れましょう。わたくしの屋敷では自由にしてもらって構わないわ。ただし守るべき決め事は守ってもらえなければ、客人としてもてなすことはできないわ」いくつかの決め事とその理由を述べる。「人前では決して仮面を外し素顔を晒してはいけない。本名を名乗る行為もこの屋敷では固く禁じるわ。なぜなら皆さんには表社会での地位や身分を忘れ、この屋敷での夢のような時間を過ごしてもらいたいからよ」
それはまるで仮面舞踏会。
決め事の裏を察するならば、この屋敷に滞在する客人たちは、高い地位や身分の者たちなのかもしれない。
急な客人であるAとGを抜かし、正式な客人としてこの場にいるのはJである。歳は若いように思えるが、このJも何かの事業主か、あるいは跡取りなのだろうか。
ほかの客人――食事の前に癇癪を起こして立ち去ってしまったSという女。そして、まだ見ぬMという女。本人が資産家でなくとも、生まれた、もしくは嫁いだ家柄が良家である可能性もあるだろう。
そもそもこのような屋敷に住むマダム・ヴィーと親交がある時点で、それなりの地位や身分のある者たちなのだろう。本来ならばAやGがいることは場違いであり、なぜマダム・ヴィーは二人を客人としてもてなしてくれているのか。それは事故に遭った不幸な者たちだからか、それとも身分の違いなど関係ないという寛大な心を持ち合わせているのか。
しかし、これまでのマダム・ヴィーの態度から察するに、彼女は召使いたちを同じ人間だと思っていないのだろう。つまり彼女は身分の違いによって人を蔑む。たしかにAとGは召使いではないが、実際にところはどう思っているのか。
Aはあまり食が進まなかった。不安が喉を詰まらせる。記憶を失っている上にこの環境、無理もないだろう。ワインばかりが進んでしまう。
マダム・ヴィーとJはたわいない談笑に華を咲かせている。一方、GはAよりも早くワインを空けていく。まるでその飲み方は水でも流し込むような勢いだ。
「そんなに飲んで平気なのか?」少し心配そうにAが尋ねた。
するとGは「なんだか傷が痛むんで、酒で紛らわせようと思ってな」と頬を真っ赤にしながら答えた。
傷とは頭の傷のことだろう。傷口がどの程度の物かわからないが、あの包帯の様子から見て、大きな怪我だったのかもしれない。
急にGが頭を振り子のように回したかと思うと、次の瞬間、食器やグラスを倒しながら大きな音を立て食卓に頭から突っ込んだ。
「おい、大丈夫かっ!」慌てて声をかけるA。
料理が散乱し、硝子や陶器の食器も割れ、溢れたワインもテーブルクロスに赤い染みを広げた。
何事かと場は騒然としたが――実際に慌てた様子を見せたのはAだけであったが、Gは自らの力で上体を起こし、少し悪びれた様子で平謝りをはじめた。
「すまん、すまん。少し飲みすぎたみたいだ」そう言いながら席を立ち、「先に部屋で休ませてもらう」軽く頭を下げて挨拶をすると、おぼつかない足取りで、すぐに駆けつけた召使いに肩を借りながら食卓を後にしてしまった。
Aも席を立った。
「友人が心配なので僕も失礼します」
理由をつけて食卓を後にした。
Gの身を案じているのは本当だが、それは記憶の鍵を握るのがGだからだ。
後を追ってすぐに廊下に出たつもりだったが、すでに人影もどこにもなかった。
広い屋敷だ、どこを探してよいのかもわからない。こんなことならば、先に部屋の場所を聞いておくべきであった。
当てずっぽうで歩き出してしばらくすると、「どこにおいででございますか?」と後ろから声がした。
作品名:夢の館 作家名:秋月あきら(秋月瑛)