夢の館
「いやぁ〜、すれ違いざまにあの女に怒鳴られちまったよ。なんかあったんですかい?」
小太りの男。やはり顔にはマスク、そして頭には中折れ帽子を被っている――室内だというのに。
説明をしようとJが口を開く間もなく、小太りの男は眼を丸くして若者に駆け寄って来た。
「おおっ、やっと眼を覚ましたのか! 二人とも助かったなんて俺たちツイてるな」そう言いながら、小太りの男は中折れ帽子を取って、包帯が巻かれた痛々しい頭を見せた。「俺はこのとおり酷い怪我を負っちまったが、どうにか助かった。ほんとマダム様々だな」
若者は理解に苦しんだ。この小太りの男は何を言っているのだろう?
小太りの男は中折れ帽子を被り直して、なおもしゃべり続ける。
「俺はここではGってことになってるからよろしくな。本名を呼ばないように気をつけてくれよな」
悩んでいた若者の前に一筋の道が現れた。
「僕のことを知っているのか?」
「おいおい、なに言い出すんだ。お前も頭打ったんじゃないだろうな?」
「いや……」口ごもった若者は、「あとで二人で話さないか?」
「お前どうしたんだ、なんか変だぞ?」
「まだ目を覚ましたばかりで……大丈夫。僕が寝てる間になにがあったか、あとで聞かせてくれよな、な?」
最後は平静を装ったが、Gは不思議な顔をして若者を見つめている。そんな表情をしたいのは若者のほうだ。
記憶がない。出会う人はすべて初対面だ。不思議や疑問ばかりが山積している。
しかし、若者は目の前の小太りの男が自分の知り合いではないかと考えた。
Gの言動を思い出してみる。
――二人とも助かった。
一人は怪我をしたG本人のこと、もう一人は話しかけられている人物、つまり若者である。これから推測されることがらは、命の危険に晒されるような事故か何かがあり、Gは頭に大けがを負い、若者は三日もの間気を失っていた。そうなると、記憶を失ったのも、この事故の為だと思われる。
――本名を呼ばないように。
この台詞が決定的な証拠となる。若者がGの本名を知っていることを前提にされた言葉であり、二人が知り合いであることを明確にしている。この屋敷の決め事を破っていないのであれば、屋敷の外でなければ本名を知り得ない。
失われた記憶を取り戻す鍵をGは握っている。
あとで二人で話そうと誘ったが、本当は今すぐにでもいろいろと話を聞きたい。はやる気持ちを抑えることは難しい。
……しかし。
急に空気が変った。糸を張り詰めたような緊張。
Jが恭しくお辞儀をして、Gも慌てて中折れ帽子を取って頭を垂れた。
薄布の赤いドレスを着た車椅子の女。
二号と同じ格好をした別の召使いに車椅子を押され、ベールで顔を隠した女が現れた。
隠された顔でただ一箇所、露わにされている艶やかな――ルージュ。
女は松葉杖を受け取り立ち上がった。
靡くドレスの裾。女には片足が無かった。腿の辺りから先が無く、風を受けたドレスが揺れる。
「ご機嫌よう皆さん。そして、はじめまして新たな客人。我が屋敷にようこそ、歓迎いたしますわ」
マダム・ヴィー。
お館さまと呼ばれるその女。
張り詰めた空気、畏怖する召使いたち、威圧感を放つその姿はさながら女帝のようだ。
優雅な身のこなしでマダム・ヴィーは手袋を外し、若者に手の甲を差し出した。
その行動の意味がわからずに立ち尽くす若者にJがそっと耳打ちをする。「彼女は男をかしずかせるのが好きなのさ。跪いて手の甲に接吻をしてあげたまえ。ぐずぐずしていると機嫌を損ねてしまうぞ」
少しぎもちないながらも若者はマダム・ヴィーの前で跪いた。細く長く伸びる指先は、真っ赤に爪化粧され、その指を軽く手に取った若者は、息を殺して青白い血管が浮かぶ甲に接吻をした。
ベールの下で艶笑するルージュ。優悦に浸っているようにも見える。
顔を隠していても、その視線はベールの下から強く感じられる。どこか熱っぽいその視線に若者は汗を握りながら、ルージュの唇を見上げた。
「お目にかかれて光栄ですマダム・ヴィー。事故に遭った私と友人を助けていただいたようで、なんとお礼を言ったらいいのか……」
そんな記憶などなかったが、間違ってはいない筈だ。
「当然のことをしたまでよ。ご友人共々傷が癒えるまで何日でも我が屋敷に居ればいいわ。この屋敷で骨を埋めてもらってわたくしは構いませんことよ」
「お気持ちは大変有り難いのですが、私にも生活がありますので、何日もお世話になるわけには……」
生活? 自分で言っていて若者は心の底で苦笑した。そんなもの覚えていないというのに――。
突然、Gが若者の肩を叩いた。「そう固いこと言うなよ。マダム様のお言葉に甘えさせていただこうぜ。俺の傷の具合もまだ良くならんし、もともと長い休暇の予定だったんだ。この屋敷で静養してもいいだろう?」
「あ、ああ」流れのまま若者は頷いてしまった。
話にJが割り込んでくる。「マダム・ヴィーに立ち話をさせては悪いだろう。お腹も空いたし料理も冷めてしまう。話は食事をしながらでもできるだろう。ねえ、マダム・ヴィー?」愛嬌のある仕草で首を傾げている。
「そうね、お食事にいたしましょう」マダム・ヴィーは速やかに背の後ろに用意された車椅子に腰掛け、食事の席に着いた。
作品名:夢の館 作家名:秋月あきら(秋月瑛)