夢の館
第二節 マダム・ヴィー
体を揺さぶられる。
「大丈夫でございますか?」
女の声で目を覚ました若者は、息を呑み体を強張らせた。目の前には不気味なフェイスマスクがあったのだ。すぐに二号だとわかり気を取り直した。
「わからない……急に頭が痛くなって、僕は気を失っていたのか?」
洗面台がすぐ近くにある。記憶が途切れる前にいた場所と同じ場所だ。
若者は立ち上がろうとしたが、足に力が入らず倒れそうになり、二号の肩を借りてどうにか立ち上がることができた。
「ずっと寝たきりでしたから、まだ体が動かないのでしょう。あまり急な運動などなさらぬようにお気をつけください」貧血か何かで倒れたとでも二号は言いたいのだろう。だが、若者は急な運動など覚えなどない。?何か?があって急に頭が激しい痛みに襲われた。
若者は背筋が冷たくなったのを感じた。
?何か?とは何だったか。
気を失う直前の記憶が失われていたのだ。
漠然として?何か?があったということまでは思い出せるのだが、具体的に何があったのか思い出すことができない。
二号が急かすように言う。「夕食のお時間です。皆様に失礼のないように、お着替えになって身なりを整えてください」
マダム・ヴィーに会えるときがきた。これでいくつかの疑問は解消されることになるだろう。それとは別に気になる点があった。
「皆様と言ったが、マダム・ヴィー以外に夕食を共にする者がいるのか?」
「はい、この屋敷に滞在している客人が何人かおります」
元より客人の出入りの多い屋敷なのか、それとも何かの集まりでもあるのか。その者たちは若者のことを知っているのだろうか?
急かされるまま若者は着替えに取りかかる。すぐ傍でこちらを見つめながら二号が立っている。
「お手伝いいたしましょうか?」
「いや、少し後ろを向いていてくれないか?」
「かしこまりました」
二号は背を向けて壁と向かい合った。忠実な召使いといった印象がした。おそらく着替えの手伝いなども、普段からしているのだろう。客人に尽くすように躾けられている。
若者は何気なく選んだ服に着替えながら、こんなことを尋ねた。
「僕が目を覚まさなかった間、僕の体を洗っていたのは君か?」
「はい、すべてのお世話を任されておりましたから」
「ほかに何か僕にしたか?」
「ほかにと申しますと?」
淡々として感情が読めない。この二号が動揺などをすると、すぐに察することができる。それを踏まえるなら、ほかに何もしていないと考えられる。
「いや、今の質問は忘れてくれ。特に意味はなかった」
意味はあった。だが、こちらの思惑を悟られることはよくないと若者は考えた。多すぎる?疑惑たち?に疑念を抱いていることを知られることは、危険と直感的に判断した。
失われた記憶、取り外された鏡、急に襲ってきた頭痛。
それらがすべて仕組まれたことであるとするならば、変に探りを入れるよりも、道化を演じていたほうがよいと思ったのだ。
着替えを済ませ、若者は二号に連れられて部屋を出た。
長い廊下はこの屋敷の大きさを示していた。床には真紅の絨毯が敷き詰められており、とても印象に残るが、若者の記憶にはこの映像はなかった。
おそらく屋敷の中心、巨大な階段が滝のように二階から一階へと伸びていた。階段を下りてそのまま進めば玄関がある。
階段を下りる前、若者は玄関から見えるであろう階段を上った先にある壁を見て、階段を下りたあとに再び来た道を振り返って、その壁を見た。壁には汚れのような跡があった。直感的に巨大な額縁のような物があったのではないかと思った。
玄関に入ってすぐ見える巨大な階段の先に見える壁にあった物。権力者が自らの威厳を誇示するために、玄関から入ってきた者を見下ろす位置にあったそれは、おそらく権力者の肖像か何かだろう。
「あの場所には絵か何かがあったのか?」
若者は壁を指さしながら何気ないそぶりで尋ねてみた。
「はい。ですが、新しい絵を飾るためにお館さまが外させました」
「新しい絵?」
「お館さまの肖像でございます」
その言葉が意味するところは、以前はマダム・ヴィー以外の絵だったということだろうか?
疑問が残るがそれ以上の質問を若者は控えることにした。
食堂に着くと、すでに二人の人物が席に着いていた。
一人はおそらく若者で、紳士風の身なりをしているが、目元を隠すマスクの下にある形の良い唇は、どこか砕けた表情を浮かべている。
もう一人もマスクで顔を隠しており、こちらはあまり年齢がはっきりしない女。肌の露出の多いドレスから覗く肉体は、若くては決して醸し出せない艶やかな色香を放っていた。
この場に現れた新たな客人にいち早く気付いたのは、紳士風の若者だった。
立ち上がった紳士は若者に握手を求めてきた。「はじめまして、君が噂の客人だね?」歌うような甘い声音。
若者は握手に応じながら尋ねる。「噂のとはどういう意味ですか?」
「事故に遭われて、部屋で静養していたと聞いているが?」
「ええ、まあ。もう良くなりました」
事故とはどのようなものか聞きたかったが、記憶を失っていることを伏せることにした為、疑問をぶつけることはしなかった。
?はじめまして?と挨拶されたということは初対面。もう一人の女はどうだろう?
「あの」
と、若者が声を掛けただけで、女は金切り声を上げた。
「話しかけないで!」
女は苛々した様子で爪をかじっている。
紳士がため息を落とした。
「彼女はいつも不機嫌らしくてね、あまり関わらない方が身のためさ。この屋敷はいつも来ても変わり者の客人ばかりで困るよ」
「いつ来てもということは、この屋敷にはよく来るのですか?」
「ボクは常連だね。申し遅れたが、ボクの名前はJという。もちろん、この屋敷での偽名だよ。そこの彼女はS、彼女も客人らしいけど、ボクと違ってこの屋敷に長く住んでいるみたいだね。もう一人、この屋敷に住んでいる客人にMという淑女がいてね、部屋にこもっていることの多いけど、そこの彼女と違って良い淑女だよ」
爪を噛んでいたSがマスクから覗く二つの眼でJを睨み付けた。
「いつかその喉元を掻っ捌いて口を利けなくしてやる」
呪詛のような言葉を吐き捨てられても、Jは口元で笑顔を浮かべていた。
「怖いことを言うね。いつキミに殺されるか楽しみだ。しかし、ボクを手に掛けるなら、せめてベッドで抱き合っているときにして欲しいな。それなら喜んで死ぬよ」
「お前のブツを切り取ってケツの穴に突っ込んでやろうか!」
汚い言葉を吐きながらSは用意されていた食事用のナイフを握っていた。
狂気を前にしてもJは平然としていた。
「生憎だけど、ケツに挿れられる趣味はないよ」
そう言ってJは含み笑いをした。
Sはフォークを握ってテーブルに力強く突き立てた。
「殺してやる! いつか絶対に殺してやるからな! キャハハハハハ!」
ヒステリックなSは高笑いしながら立ち去ってしまった。
静まりかえった部屋でJが「いつもこんな感じさ」と呑気に笑った。「彼女は口は悪いが、この通りボクはまだ生きている。ま、そういうことだよ」
すぐに別に者が部屋に入ってきた。
作品名:夢の館 作家名:秋月あきら(秋月瑛)