夢の館
おそらくお館さま――マダム・ヴィーはこの屋敷に置いて絶対的な権力を持っている。もしかしたら、その影響力は屋敷の外にまで及んでいるのかもしれない。それを想像する根拠は、滞在者にも異様な決め事を強要することだ。若者の素顔を隠す無機質な仮面。
異様な決め事はマダム・ヴィーの趣向か、それとも深い意味が隠されているのか。根拠や物証のない推測は、正しい答えを見いだすには及ばない。現時点での推測はあまり意味のあることではないだろう。多くの謎はマダム・ヴィーに尋ねるのが筋であり、若者が何者であるかという答え、もしくはそれを導く手がかりは、おそらくそこにある。
「マダム・ヴィーに今すぐ会いたいのだが?」若干、焦る口調で申し出た若者。
「……おそらく、今は誰ともお会いになられないと思います」答えるまでにあった数秒の黙しから、異様な空気を感じ取ることができた。その黙しの最中、これまでになく唇を振るわせていたのだ。
まるで問い詰めるように「なぜ?」と強い口調で若者は尋ねた。
しかし、二号はその問いかけに答えることなく、「夕食のときにお館さまとお会いできます。それまでにお着替えになって、身支度を済ませておいてください」
「夕食か……」
若者は大きな窓の外に視線を移した。
空は夕闇に染まり、沈みゆく朱色に蒼の闇が覆い被さっていた。
ぼんやりと外を眺めていると、何か扉のようなものが開く音が若者の耳に届いた。そちらに顔を向けると、二号がクローゼットを開けて立っていた。
「お着替えはこちらにご用意してございます」
「用意がいいな」
良すぎると言ったほうがいい。用意されていた服は一つや二つではなく、クローゼットいっぱいに服が詰まっていた。この待遇の良さに疑問を感じずにはいられない。
目を覚ましてから疑問ばかりだ。
時折、隠し事があるようなそぶりを見せる二号の言葉を、すべて信じることは心情的にどうしてもできないが、嘘をついているという確証もない中で、今までの会話をすべて鵜呑みにするのならば、三日の間は寝たきりで目を覚まさなかったという。そして、若者と話をしたのは、先ほどが初めてだと言った。
この屋敷にはいつからいるのだろうか?
三日間は寝たきりで、それ以前は会話を交わしたことがない。
記憶を失ったのはいつ、?どの場所?だったのか?
二号はすでに部屋を出ようとしていた。
「では、お食事の時間に呼びに参ります」
軽い会釈をして部屋を出て行く二号の背中に「まだ……話が」若者は声を掛けたが、扉の閉まる音が虚しく響いた。
部屋に独り残された若者は、しばらく難しい顔をして立ち尽くしていたが、急に歯切れよく動き出してクローゼットの中を物色しはじめた。
この衣服は若者の為だけに用意されたものなのか、はじめから屋敷にあったものかのか、それとも……という考えが脳裏に過ぎる。その考えとは、自分の持ち物なのではないかという予感である。なぜそう思ったのか、確証があるわけではないが、しいていうならば直感でそう感じた。
いくつかの服を見たが、若者はすぐに着替えることはしなかった。
部屋を軽く見渡して、何かを探すようなそぶりを見せる。物を探すと言うより、部屋を見取るように眺めている。
「シャワールームはないのか?」
呟いて若者は歩き出した。
三日間、寝たきりであったのならば、シャワーも浴びて汗を流したい。それとシャワールームの近くには鏡がある筈だ。手鏡は二号がなぜか持っていってしまったらしく、自分の素顔を見るためにどうしても鏡を探したかった。
若者は歩きながら自分の手や腕の臭いを嗅いだ。ほのかに石鹸の匂いがする。続いて、髪の臭いも嗅いでみた。まるで洗い立てのような、芳しい花の匂いがした。
寝ている間に体を洗われていたと考えるのが自然だろう。ならばシャワーを浴びる必用はないが、鏡は見つけ出さなくてはいけない。
部屋を移動してすぐに洗面台を見つけることができた。その場所に鏡はなかった。代わりに壁には、そこにあった物を外したような跡が残っていた。おそらく鏡を外した跡だ。
しかし、どうして鏡を外す必用があったのか?
何らかの理由、例えば割れた鏡を取り替えるために、そこにあった鏡を外したと考えるのが、普段の生活では考え得ることだ。が、疑惑ばかりのこの状況では、勘ぐってしまわずにはいられない。
「僕に見られてはいけないモノがある……素顔」
例えそうであったとして、理由が不明瞭である。
人前では仮面を外してはいけない。その決め事と関係があるのか、それとも……記憶を失っていることに関係があるのか。
記憶を失った原因は何か?
若者は考えを巡らせることに没頭して、ふと我に返ったときに、無意識のうちに腕を掻いていることに気付いた。掻いていたのは腕の裏側。爪で引っ掻いて赤くなったその場所に目を凝らした。
眉を寄せて怪訝な表情をした。
まるで虫に刺されたような痕が一つあり、少しずれた場所にもう一つ。ここで若者は急に首に手を当てた。そこにもあった、指先に触れる痕の感触が首にもあったのだ。
視界が瞬間的な転換を起こし、脳裏に刹那、艶やかな唇が浮かんだ。
妖しく嗤う女のルージュ。
何か思い出せそうになった瞬間、若者の頭が急に痛み出し、辺りが急に白い靄に包まれ、そして闇に沈んだ。
作品名:夢の館 作家名:秋月あきら(秋月瑛)