夢の館
マスクの奥から覗くJの視線は熱を帯びていた。妖しげな艶やかさを醸し出す瞳だ。
急にJの顔がAの眼前まで近づいてきて、その顔がふっと視線から逸れて、Aの耳元に唇を近づけた。
「知っているかい……この屋敷に来る者たちの目的を?」
甘く囁く声色。躰の芯がぞくぞくする鈴を転がすような声音。
動けず立ち尽くすAの耳元でさらに、「若くて綺麗な男を買いに来るのだよ。客は女だけではないよ、金と地位のある知識層の男にはその手の趣味を持つ者が多くてね」
鳥肌を立てたAは素早く身を引き、Jから距離を置いた。
「あなたもその客なのですか?」
「そうでなければ、この屋敷に長くは居られないよ。麻薬の取引相手よりも、こちらの客をマダムは手厚くもてなしてくれるからね」
Aの脳裏に突然蘇る光景。
あの地下で行われていた地獄の所行。
「ただの人身売買ではないでしょう。僕はマダム・ヴィーが少年の腕を……うっ」
急に吐き気を催しAは口に手を当てた。
それを見てJは笑っていた。
「そうかキミは見たのか。ボクはその現場を生で見たことはないけど、マダムが何を行っているかは知っているよ。ここに来る客ならば誰でも知っていることだが。彼女は調教師……というより芸術家というふうが相応しいだろうね」
Aが激昂する。「あれが芸術だって! 神に対する冒涜じゃないかっ!」
「この屋敷に神などいないよ――いるのは悪魔だ」
「ならここに来る客達は皆、悪魔に魂を売った手下ですね」
「そうかもしれないね」Jは自称気味に笑い、少しだけ俯いて見せた。
Jはなにを思っているのだろうか。
そして、Jは顔を上げて口を開いた。
「先ほどの鍵のことだけどね。あの鍵をキミに預けたのは紛れもないボクさ」
「やはり……でもなぜ?」
「もともとボクもあの鍵を別の人物から譲り受けたのだよ」
「誰ですかそれは?」
「それは言えないよ。?彼女?にも立場があるからね」
いつものように明確な答えは言わなかったが、?彼女?という言葉を若干強調したような気がした。
急にJはAの躰を抱き寄せた。
「けれど、キミがボクに心も体も服従を誓うのなら、教えてあげてもいいけどね」
「やめてくれ!」
AはJの両肩を掴んで力一杯押し飛ばした。
その弾みでJは地面に尻餅をついた。
しかし、Aは謝りもせず、ましてや言葉すら掛けずにその場から逃げ出した。
足早に玄関に向かう途中にAは気づいてしまった――物陰に隠れていた人物に。それは先ほどJとテラスにいた奴隷の一人だ。まさかずっと監視されていたのか。
屋敷の中に戻ってきてしまったAは、これからどうするか迷い果ててしまった。まだJには聞きたいことがあったが、今さら戻るわけにもいくまい。
次の糸口は?彼女?だろう。その?彼女?が誰なのか、突き止めることが筋書きだろう。Jはその筋書き通りにAが動くように、あえて?彼女?の正体を明かさなかったのだから。
Jの思惑通りに動くことに躊躇いがないわけではないが、それが吉と出るか凶と出るかはまだわからない。少なくともなんらかの進展はあるだろう。釣り針の餌に食いつけば、とりあえず腹は満たされるのだから。
?彼女?に当てはまる人物は誰だろうか。Jの匂わせ方から察するに、たどり着けないことえでないだろう。そうすると今この屋敷にいる人物である可能性が高いだろう。
奴隷たち、客人、そしてマダム・ヴィー。
マダム・ヴィーが直接Aに鍵を渡す理由は乏しいが、Jであるならば客の一人として商品を見せるためなどに鍵を渡すかも知れない。そうすると『?彼女?には立場ある』とは、どのような意味だろうか。鍵を渡したのが誰であれ、本来その鍵は譲渡するような物ではないということか。
だとするならば、マダム・ヴィーである可能性は低くなる。なぜなら彼女はこの屋敷でお館さまと呼ばれ、不可解な決め事を客人たちにまで強い、絶対権力者として君臨しているからだ。彼女の権力の大きさから考え、鍵を渡すと彼女が決めれば、それを阻むものはないだろう。この屋敷の現状からは、マダム・ヴィーの立場が揺らぐことは今のところなさそうだ。
?彼女?が客人の中にいる可能性。今、屋敷に滞在している女はSとMの二人しかない。たとえ二人しかいなくても、判断材料がなければこれ以上は絞り込めない。
SとMのどちらともあまりAは会話をしていない。Sに至っては話にならないし、やっと会えたMとは……。
Aはあの時のことを思い出した。そう、Mと会話していた最中に意識を失ったことだ。彼女の行動と言葉は矛盾しているように思われた。
屋敷から逃げろと促しつつも、何らかの罠にAを嵌めてマダム・ヴィーに引き渡したと思われる。その意図は未だにわからない。また話をしてみる必要がありそうだ。
最後に?彼女?が奴隷たちの誰かだった場合。もしもそうだった場合は、絞り込むことが困難だ。Aはまだ何人の奴隷がいるか把握していない。Aが少しばかり知っているのは二号くらいなものだ。
今までAが見てきた限り、この屋敷には男よりも女のほうが多そうだ。そう考えると、?彼女?という示唆は、あまり役に立たないかも知れない。
女のほうが多そうだというのも、あくまで今まで見てきた限りのこと。まだ知らぬ人物が屋敷には多くいる可能性もある。少なくとも地下で一人見たのだから。
Aはこれからどこに向かうか考える。
マダム・ヴィーにはあまり会いたくない。なぜなら昨晩の光景を鮮明に思い出すのが怖かったのと、大男から報告を受けているとしたら、何かしらしてくるかもしれないからだ。
奴隷たちも信用ならない。マダム・ヴィーの手が及んでいる。先ほども監視されていたかもしれないと言うのに。
残るはSとM。二人の部屋は覚えている。隣り合わせに位置していた。
とりあえず両方に当たろうとAは考え廊下を歩き出した。
作品名:夢の館 作家名:秋月あきら(秋月瑛)