夢と現の境にて◆参
「…遅かったじゃない。待ちくたびれちゃったわ」
彼女は風に靡く前髪を手で梳きながら楽しそうにそう言った。
放課後のこの場に足を向けようと思ったとき、俺は自分の中で作り出した一つの可能性というものをあまり信じてはいなかった。が、そんなに驚きはしなかったのはなぜだろう。全てが半信半疑だったのだというのに。
そのため何度か目を瞬かせて、本当に俺が思っていた人物かどうか、目を凝らししっかりと確かめ様としていた。
「私の事、忘れてないよね?」
俺が何も言わないのを見て訝しげに眉を寄せる彼女に、俺は忘れてないと直ぐに返した。確かに、発せられている声は正しく自分が想像していたものだったからだ。彼女がよかった、と大げさに笑って見せた。ああ、懐かしいなとそれを見て思った。彼女は一つ一つの言動や行動を、決してぞんざいには扱わない。そんなことを覚えている自分にも笑ってしまうが、彼女は――紗絵はそういう奴だった。
「でも、高校に入ってからはそんなに会うことなかったよね」
「…そうだな」
「まぁ…クラス違うからしょうがない、かぁ」
残念そうな笑みを浮かべながら、紗絵は被服室の窓際で揺れるカーテンを目を細め見つめた。暫くの間、そうして時間が流れると紗絵は窓際から離れ、俺の前まで歩み寄って来た。…はっきり言って、この被服室を訪れても紗絵がいるという可能性は本当に考えにくいことだったのだ。だから、あれからもう一か月以上経った今日、訪れてみて驚いた。だって、ここは。
「花瓶、当たらなくてよかったわね」
紗絵がそう言葉にした途端、自分の中で考え抜いても掴めずにいたあのもやもやとした気持ちがスッとどこかに消え去った。そして確実なものへと変わった。
「…落とした張本人が何言ってんだ」
「それもそうね。」
余裕の笑みを見せる彼女に俺は少し苛立った。
「でも、あわよくば花瓶が当たってくれたら、あなたは私のところに戻ってきたかもしれないわ」
それが少し残念だわ、と紗絵は悲しげな顔をした。もうとっくに終わった関係に何をそんなに執着するのか、俺にはよく分らなかった。それに花瓶が当たったとして、なぜそうなるのかも分らない。それを察したのか、紗絵はまた楽しげな笑みでこちらを見た。
「もっと考えなきゃダメよ。頭っていうのは大事なところなの。強い衝撃があれば記憶だって飛ぶかもしれない。私と別れたことも忘れるかもしれない。そうでしょ?」
俺の同意を求めるかのように手を翳していう彼女に俺は、半ば同情していた。勿論そんなことのために命を奪われるところだったことにも腹が立つが、彼女にとってこれは本気なのだ。中学の頃、付き合っていた時から微かに感じていた。彼女にはこういう性格があると。被害妄想というのだろうか。それに巻き込まれることも多々あるためか、彼女には友達が少なかった。
俺もそうだった。だけど、別れた決定的原因はそれではない。
「俺が怪我をしてまでも、付き合いたいのか」
「ええ、そうよ」
「どうして」
「どうして?なぜそんなこと言うの?」
目を見開きそう問う彼女は、正常な気がしなかった。乾いた笑いをして低い声で喋り続ける。
「好きだからに決まってるじゃない。他にどんな理由があるっていうの?」
「…俺がどうしてお前と別れたか分ってるのか」
「知ってるわ。だけど、今もうそんなこと関係ないじゃない」
昔の事よ、とニヤリと微笑みを浮かべてそういった。
「俺は、お前とは付き合わない。どうしてか分かるか?」
なるべく、優しい声で言った。彼女は不安げに眉を寄せて首を振った。
「俺が、お前の事を好きじゃないからだよ。」
「嘘よ。嘘っ!だって、好きだって言ってくれたじゃない!!」
嘘、という言葉にずきりと心が痛んだ。狭霧の、あの悲痛な叫び声が脳裏に蘇る。
「中学の時のことだろ。好きじゃなくなったから別れた。…お前が人を傷つけるから、俺はお前を好きになれないんだよ」
俺の顔は多分今とても酷い顔つきになっているのではないだろうか。紗絵を宥めながらそう思った。先ほどの言葉に、泣き崩れ俺を非難するあの狭霧の姿がいつまでも離れない。
「じゃあ…」
不意に、俺の言葉に一瞬黙り込んだ紗絵が小さく呟いた。
「じゃあ…もう、無理…なのね」
絞り出されるかのようなか細い声に、俺は俯いた。思わず慰めの言葉を吐きそうになり、必死に口を噤んだ。今ここで優しい言葉をかけたら、また逆戻りだ。いつまでたっても、終わらせることができなくなってしまう。俺は小さく深呼吸すると、頭を下げた。
「悪い…。俺の事は、諦めてくれ」
そう言って頭を上げても、紗絵は何一つ言葉を発さず立ち尽くしていた。表情にも変化が見られない。返事を待とうかとも思ったが、それもいけないのだと自分を叱咤し、もう、行くなと声をかけてから被服室を出た。
これで多分、終わったはずだ。
いつまでも動かない紗絵が気になったが、俺はあの始まりとなった事件の幕を閉じた。
そう思った。