バルコニーの向こう
++R-04
最初、何が起こったのかわからなかった。
突然ツヴァイが動き、同時に大きな音がいくつも重なって響く。
「あ……」
リアンのほうに向かって前のめりに倒れるツヴァイ。その体をリアンは必死に支え、そして肩越しに見た。
何人もの人間。飼い主や使用人だけでなく、神父様やよくわからない人もいる。ある者は鉄の筒を、ある者は聖水を、ある者は十字架を持っていた。
「リアン、まさか貴様が吸血鬼を招き寄せていたとはな。まったく可愛がってやった恩を忘れおって」
そう言ったのは一番後ろのほうにいたリアンの飼い主。
「どうして、こんなことするんですか」
掠れた声で尋ねる。ツヴァイをこんな目にあわせるなんて信じられなかった。ツヴァイはリアンとは違う。ペットではないのだ。
しかしそれに飼い主はリアンをなぶるときに見せる楽しそうな顔を見せ、自分も鉄の筒を構える。
「当たり前だろう。吸血鬼はお前と同じ卑しいものなのだから。そんなにその吸血鬼がいいならお前も一緒に銀の銃弾に撃たれて死ぬといい」
「やめて! ツヴァイを撃たないで!」
リアンはツヴァイの前に出て、両手を広げて立ち塞がる。あの鉄の筒がなんなのかリアンは知らないが、あれがツヴァイをひどい目にあわせたのだということだけはわかる。
リアンが立ち塞がっても誰も鉄の筒をおろすことはない。それでも自分が盾になれば、ツヴァイを少しの間守ることはできる。リアンは自分にそう言い聞かせながら、ふらつく足を必死に奮い立たせた。
「リアン……もういい」
「ツヴァイ!」
ふわりと体が宙に浮く。リアンを抱き上げ、ツヴァイは黒い翼を広げた。そして飼い主たちが動くより早く地を蹴った。
ばさりと羽を羽ばたかせ舞い上がり、バルコニーの外へ飛び出す。遠かった月が少し近くなり、バルコニーは遠くなった。
しかしそれも束の間。またあのけたたましい音が鉄の筒から放たれる。それと同時にこちらに向かって何かが飛んできた。
「ぐっ……」
急にぐらりと世界が傾く。夜の闇より深い色をした血が飛び散る。
ツヴァイが何とか持ち直そうとがんばっていたのがリアンにもわかったが、次々とけたたましい音が続き、やがて耐え切れなくなったのかツヴァイの体はまっさかさまに落ちていった。
「ツヴァイ。ツヴァイ!」
リアンが呼んでも返事はない。その瞳は固く閉ざされている。
上を見れば、大地が見える。見下ろせば飛び降りたくなってしまうだろうから、一度も見下ろしたことのない世界が、今はリアンの上にある。毎晩一人で見上げた空は、今は足元にあって。
「ツヴァ……っ、ごほっ!」
リアンの体も限界だった。体の中が気持ち悪い。その気持ち悪いものを全て吐き出してしまおうとするかのように、口からはまたぼたぼたと血が溢れる。
(そうだ。血だ……)
ツヴァイは血を吸わないのだと言っていた。しかしこのままではツヴァイは地面に激突して死んでしまう。鉄の筒から受けた傷もこの様子だと浅くはないのだろう。
しかしもしかしたら、血があれば助かるかもしれない。ツヴァイだけなら助かるかもしれない。
(ごめんね。あたしの血なんて、ほしくないかもしれないけど)
咳込みながら、血だらけの唇をツヴァイのそれに重ねる。そして口の中に溜まった血を少しでも多くツヴァイの口に移そうとした。それでも足りないかもしれないので一度唇を離し、口の中を力の限り強く噛む。するとまたリアンの口の中に新しい血の味が充満し、リアンはもう一度唇を重ねた。
その間も、ずっと心の中でツヴァイに語りかける。
(ねぇ、ツヴァイ。さっきの話、よくわかんなかったんだけどね。あたし、ツヴァイと一緒に行きたい)
見上げれば、地面はもうすぐそこだった。すごいスピードで二人の間を風が駆け抜けていく。
(ツヴァイといるとなんかあったかい気持ちになるの。これ、なんていうのかな。なんか気持ちいいの。だからあたし、ツヴァイと一緒に行きたい)
「げほっ、ごほっ……ツヴァっ、ごほっ」
激しく咳き込み、リアンは身をよじらせる。その瞳にはじめてうっすらと涙が滲んだ。
しかし、リアンは歪む視界の中でたしかにはっきりと見た。
ツヴァイが目を開くのを。
「リ……アン……」