バルコニーの向こう
++Z-04
今日のリアンはいつもと様子が違っていた。華やかなドレスのかわりに薄汚い染みだらけのシーツを不器用に巻きつけただけで、白い肌のそこかしこは痣や内出血の痕が見られる。
「ごめんね。今日はごはんないの」
定位置となりつつあるツヴァイの足元へ向かう足取りは不安定で、途中で体がぐらついてよろめく。ツヴァイは慌ててバルコニーの手すりから降りてそれを支えた。
「リアン、どうした?」
「なんでもないよ。飼い主に殴られただけ」
本当になんでもないことのように言う口許は血がべっとりとついていて、ぶたれたのか両頬は赤く腫れあがっていた。長く美しかった髪も今では無残に切りきざまれてしまっている。
「だからってこんなに……何か、へまでもしたのか?」
それには小さく首を振り、リアンは答える。
「ストレス発散だって」
なんだそれは。ふざけるな。近くでよく見てみれば、シーツの染みに見えたものはどれもまだ真新しい血痕だった。たいした足しにはならないかもしれないが、こんなことなら薬草の一つでも摘んで来ればよかったと後悔する。
「でもね、あたしも悪いんだって。あたしが泣いたりしない人形みたいだから、余計腹が立つんっ……げほっごほっ!」
「リアン!」
リアンは突然体をくの字に曲げ、咳き込みはじめる。口許にあてがわれた手には乾いた血の上からまた新しい血が上乗せされる。
「お前、ひょっとして内蔵までやられたのか?」
「わかんな……ごほっ」
「落ち着くまで喋らなくていい。小さく頷くだけでいいから。お前、腹とか蹴られなかったか?」
咳き込むリアンの背中をさすってやりながら、ツヴァイは尋ねる。リアンはそれに苦しそうに咳き込みながら首を小さく縦に振った。
他にも聞きたいことはあったが、今は喋らせてはまずいのでツヴァイはリアンが落ち着くまで背中をさすってやる。それから数分間リアンは咳き込みつづけていたが、やがて小さく息をついた。
「もう、へーき」
どうにかひとまず収まったらしい。ツヴァイはほっと安堵の息をつく。しかしリアンの具合がよくなったわけではなく、決していい状態とはいえなかった。
「お前、医者とかは?」
「ううん。あたし、もうすぐ捨てられるの。飽きたんだって」
「なんだよそれ。お前はそれでいいのかよ」
「だって、しょーがないもん。でもね、運がよければまた奴隷市場に出せるかもしれないって」
そんなもの、運がいいなんていわない。いっちゃいけない。そんな生き方をしていいはずがない。
ツヴァイはリアンの小さな体を抱き寄せる。弱っているリアンの体はとても軽くて、何の抵抗もなくすっぽり腕の中に納まった。抱きしめると、鼻を一層強い血の臭気がくすぐる。ツヴァイの中の吸血鬼の本能が騒いだが、そんなことに構っている余裕はなかった。
「お前はここにいちゃ駄目だ。俺が医者のところまで連れて行ってやる」
「ツヴァイ?」
すぐ傍にある若草の瞳がツヴァイを見上げる。リアンの頬にぽたぽたと雫が落ちる。リアンは抱きしめられたツヴァイの腕から右腕を引っ張り出してそれに触れた。
「ツヴァイ。泣いてるの?」
それはツヴァイの涙だった。そのうちの一粒がリアンの瞳の上に落ち、また頬を伝う。ツヴァイから見ればまるでリアンが泣いているように見える。
「あたしも泣ければ、ぶたれないで済んだかな」
「何言ってんだよ。そんなことのために人は泣かなくていいんだ」
涙は血と混ざり、きらきらと月の光を受けながらリアンの纏うシーツに落ちる。
ツヴァイはリアンを壊してしまわないように、そっと優しく両腕に力を込めた。
「俺はもう血は吸わないって決めたから、あんまり長く生きられねぇけど、それでも最期まで傍にいるから。そう誓うから。だから、俺と一緒に来い」
吸血鬼の自分なんかと一緒にいればきっと彼女はいい思いをしないだろう。それでもここにいるよりはずっとましだ。一緒にいれば守ってやれる。この子のことを誰も知らない遠くまで、寿命が尽きる前に辿りつけるはずだ。
「それは、ツヴァイがあたしの新しい飼い主になるってこと?」
「違う。そうじゃない。俺はお前と対等な関係として一緒にいたいんだ」
「たいとう?」
その時、銃声が響いた。
「危ねぇっ」
いち早くそれに気づいたのは、部屋のほうを向いていたツヴァイだった。風で翻ったカーテンの隙間から一瞬だけ覗いた銃口。次の瞬間にはいくつもの発砲音が響き、カーテンに穴をあける。
ツヴァイはリアンを庇うように向きを変え、背中に銃弾を浴びた。
肉を食い破り奥へと入り込んだそれはツヴァイの体を内側から焼く。ツヴァイは低く呻きを漏らした。