バルコニーの向こう
++Z-03
リアンという少女と会って今日で三日目。なぜこの地にとどまり続けるのかは自分でもわからないが、なんとなく今日もこの地を離れることなくリアンのいるバルコニーへ降り立つ。
リアンのことで一つわかったことがある。どうやら彼女は感情を表に出せないらしい。まったくの無表情というわけではないのだが、それでもよほど注意していないとその変化に気づくことはできない。
たぶん感情がないわけではないと思う。ただそれを表現する術を持たないのだ。
「バナナ、あげる」
こんばんはもまた会えたねの言葉もなく、リアンは今日もツヴァイに果物を差し出す。まるでそれを挨拶の言葉だと思っているかのように。
バナナを受け取ろうと手を伸ばして、ツヴァイはふと違和感に気がついた。
リンゴとオレンジは両手に包み込むようにして持っていたのに、今日のバナナは先端を親指と人差し指でつまむようにして、極力自分から遠ざけようとピンと腕を伸ばしている。
「バナナは嫌いなのか?」
「うん。だってなんか似てるし」
いったい何に似てるというのか。嫌いなものを目の前で食べているのを見るのは嫌かなと思いその扱いに困っていると、「食べていいよ」とリアンは言った。それでもまだ迷ったが、これで食べないのも逆に失礼だし、腹が減っていないわけでもないのでツヴァイはバナナの皮を剥いて中身をほおばる。
そこでいったん会話が途切れ、静寂が流れた。せっかく来たのに何も語らないままではもったいない気がするので、今日もツヴァイのほうから話をふった。
「お前さ、何の仕事してんの」
今日もリアンはツヴァイの足元に膝を抱えて座っていたので、ツヴァイも自然に自分の足元を見る。リアンはツヴァイの顔を見上げている。
「ペット」
「え、何?」
ツヴァイはその言葉の意味がわからず顔をしかめる。聞き間違いか何かの勘違いだと思った。
リアンは淡々と説明する。
「あたしはここに飼われてるの。きれいな格好をして、毎晩飼い主に抱かれに行くの。それで飽きたらよそに売られるか捨てられるの」
その表情に悲しみや辛さ、屈辱といったものはない。ただ尋ねられたから事実を説明しているだけ。それともツヴァイが読み取れないだけで彼女の中には何かそれに近い感情が渦巻いているのだろうか。
「辛くないか?」
「辛いってどんな気持ち? えと、これ気持ちであってる? あたしね、頭よくないから難しいことわかんないんだ」
一般的な教育どころか、普通に生きていけば自然に備わるはずの知識も持っていない。リアンはまるで真っ白なのだ。何も知らず、虐げられることに慣れてしまった愛玩奴隷。それがこのリアンという名の少女。
「ツヴァイ?」
何も言わなくなったツヴァイを若草色の瞳で見上げるリアン。
「お前は、生まれたときからそういう生活をしているのか?」
「うん。たぶん」
「じゃあ、リアンって名前は?」
「今の飼い主がつけた。前はエイシュラって名前だった」
この少女は名前さえまともに持たない。
初めて出会ったときは貴族の少女だと思っていたのに、このギャップはなんだろう。人間世界で愛玩奴隷というものが存在することは知っていたが、こんな年端も行かない少女がそうなのだとは知らなかった。
「ねェ、バナナ嫌いだった?」
「え?」
その声でまだ半分残っていたバナナを手で握り締めていることに気づいた。
「嫌いじゃねぇよ」
そう言ってツヴァイの握力で形の変わりかけたバナナを口に含む。
表情に乏しいリアンの顔が一瞬笑ったように見えた。しかしもう一度瞬きして見てみればそれはやはりいつもの顔で。
「仕事だから行くね」
三日目ともなればお決まりの言葉を残して、こちらの言葉を待たずに消える。
それがリアンという少女。