バルコニーの向こう
++R-02
今日も空を仰ぐことはなかった。
そっと両手でオレンジを包み込み、カーテンの隙間からバルコニーへ足を踏み出す。
そこにいるのは昨日出会った黒き異形。
「なにしてるの」
「昨日の礼を言いに来た」
今日の鳥はバルコニーの手すりに腰掛けている。危ないと忠告しようと思ったが、考えてみれば相手は飛べるのだから問題ないことに気づいた。
「オレンジ、好き?」
両手で包んだそれを差し出す。鳥は少し逡巡しつつも礼を言ってリアンの手から受け取った。
「俺はツヴァイ。お前は?」
「リアン」
手すりに腰掛けて足を遊ばせる傍の床に、リアンはぺたんと腰を降ろす。座った後にドレスが汚れやしないかと思ったが、座ってしまったのではもう遅いので考えないことにした。
「お前、俺が怖くないのか?」
剥き終わったオレンジの皮を手で弄びながら、実のほうは食べやすい大きさにちぎって口に放り込む。
「怖くないよ。怖いことなんてなにもないもん」
「血を吸われるとは思わなかったのか?」
「難しいことはよくわかんない」
吸血鬼が血を吸う異形だということは知っている。しかしそれがどうして怖いのかリアンにはわからない。血を見るのが好きな人間だってたくさんいるし、血を吸われたってどうということもない気がする。
「でも驚いた。初めて見て、珍しかったから」
これは本当だ。いつも空を見上げるしか楽しみのなかったリアンが、初めてそれ以外のものを自分から見たのだから。これは見る価値のあるものだ。ツヴァイを見て、リアンはそう感じたのだから。
「ふーん。お前、変なやつだな」
最後の一粒を口に放り込み、なぜかツヴァイは口許を引きつらせた。目を少し細める。笑う、という行為。
吸血鬼も笑うという行為をするのだとリアンは知らなかった。立ち上がり、その顔に手を伸ばす。月明かりの下でその顔かたちをよく知ろうとするかのように。
「笑うんだ?」
「そりゃあ、吸血鬼だって元は人間だしたいていの生き物は感情があるだろ」
「そっか。すごいね」
笑い顔が、今度は怪訝にひそめられる。今どこをどうやって顔を変えたのだろう。もっとよく知りたくていろいろ尋ねようとしたのだが、はっとリアンは仕事の時間であることを思い出した。
「仕事だから、行くね」
相手の言葉も待たず、踵を返す。リアンは別れの言葉を知らない。そんな言葉が存在するということ自体知らないし考えたこともない。
だからリアンは去るという事実だけを告げ、カーテンの隙間へ消える。昨日と違うドレスの裾を翻して。