バルコニーの向こう
++Z-02
吸血鬼に血を吸われれば、吸血鬼になる。
しかしその確率はそう高くなく、たいていのものは苦しんだ果てに死ぬ。
また吸血鬼となった数少なき者らは、ある者は血の狂気に溺れ、そしてまたある者は己の生にすがりつくことの苦しみを味わう。
ツヴァイは後者のほうだった。
生きるためには生き血を啜らねばならない。しかしそれは必ず誰かに苦しみをもたらす。
そこまでして生きることにいったい何の意味があろうか。
50年程が経ち、己の中に生まれた疑問。そのときからツヴァイは血を吸うことをやめた。そしてそのまま静かに滅ぶ道を選んだ。
それでも命を自ら絶とうとしなかったのは、犠牲にした命への償いだったかもしれないし、漠然とした死への恐怖からだったかもしれない。
ツヴァイはただ飛び続けた。夜が訪れ夜が去ってしまうまで、少しでも多くの世界を朽ちゆく脳に焼き付けようと。
それでもやがて力を失い地へ落ちる。そしてまた目覚め、飛び立つ。これを何度も繰り返し、やがて大地へ還るのだ。
ただその時ツヴァイが落ちたのは地面ではなく、見知らぬ貴族の屋敷のあるバルコニーだった。
顔にかかる冷たくて柔らかい感触に目を覚ます。
最初に見たのは泡沫の夢のような記憶の中で埋もれている、真昼の光に晒された若草を思い出させる瞳。
女だった。それも息を呑むほどに美しい。まだ15,6だろうか。少女のあどけなさを残しつつ大人の女にかわろうとしている、未だ発展途上の美しさ。顔に触れる感触は彼女の長く艶やかな赤い髪の一房だった。
「リンゴとか好き?」
形のよい唇が動く。驚くでもなく、怯えるでもなく、敵意さえもなく。
「驚かないのか?」
「驚いたよ。でももう驚いてない」
とぼけたような、曖昧な返事。口を開くと子供っぽさの方が勝った。
次の言葉を見出せずぼんやりとしてしまったツヴァイに、少女は持っていたリンゴを差し出す。
「あげる。仕事だから行くね」
それだけ言って、リンゴを横たわるツヴァイの胸の上にぽんと置くと少女は踵を返す。部屋にははじめからカーテンがかかっていて、その隙間から消えるようにして女の姿はバルコニーから見えなくなった。
きらびやかなドレスを身にまとい、頭には豪勢な飾りがつけられていた。あれは使用人などではなく、この屋敷の娘だろう。
「……変な女」
他の者を呼びに行ったのかとも少し思ったが、一向に人が来る気配はない。本当に怯えも敵意もなかった。
これが昼に拒絶され夜に縛られた二人の出会いだった。