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つるさんのひとこえ 4月編 其の二

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 「いいえ。犬島君は何も言ってないわ。ただ、言いそうになってたから止めただけ。犬島君には言っておくけど、あのね、香苗はそういう、何て言えばいいのかな、とにかく性に関する話が大嫌いなの。私達、同じ中学校の出身なのだけど、あれは――そうね、中学二年生の時だったかしら。保健体育の授業ってあったじゃない?その授業中、所謂性教育ってのやってたんだけどね、その最中、香苗はずっと赤い顔をして俯いてて。その時はただ、気分が悪いのかな、保健室に連れて行ってあげないとダメかな、なんて考えていたのだけど」
 呼吸を整えるためふうっと息をつく月極さん。
 「そういう授業って、男子達が異常に騒ぎ立てるじゃない?そのとき香苗の隣に座っていた男子も、そんな感じで。それでね、その授業が進んで、男子達の盛り上がりが凄すぎて、先生の声も聞こえなくなったくらいの時に」
 何かを決意したような目の月極さん。
 「香苗はね、たぶんその授業中、ずっと我慢してたんだと思う。それで、その我慢が限界になって――結果だけ言うとね、香苗はその隣の男子の頭に怪我をさせてしまったの。それも、何日も病院で過ごさなくちゃいけないような。だから、部長の前でのそういう話は禁止。分かったわね?」
 黙って頷く。横で話を聞いていたロシアの女の子も月極さんに気圧されたのか真面目な顔をしている。
 「えと、ぶちょさんは、えちな話、きらい?」
 そう。よく分かってるじゃないか。だから、どうすればいいかも分かってるよな?
 「ぶちょさんの前で、えちなはなし、できないね」
 よくできました。よしよしいい子だ。褒めてやろう――っていうかコイツは部長とどんな話をするつもりだったんだ?
 「ナスチャさんも、そうしてくれると有り難いわ。あ、そろそろみんなが来たみたいよ」
 全くそんな気配がしないのに、どうして分かる?
 「私って、ものすごい地獄耳なの」
 心の中の声まで聞かれるとは思わなかった。が、今はその悪戯好きな小悪魔みたいな笑顔に免じて驚かないでおこう。
 「待たせたな。書道部とその他の面々を連れてきた。早速、始めようではないか」
 結局、部室には行かずに灌仏会に参加することになってしまった僕。と、もう一人の日本の文化大好きロシア人のナスチャ。
 部長が連れてきたのは男女合わせて二十人ほど。各々が適当なところに座布団を敷いて座った。
 「それではこれから灌仏会を始めようと思う」
 部長の挨拶が始まった。
 「そもそも灌仏会とは何か?などの野暮ったい説明も今更必要ないだろう。各自、思い思いに楽しんでいってくれたまえ

 部長の挨拶が終わった。今思えば入学式の時の部長の挨拶もそうとう短かったな。これはこれですっきりしてていいじゃないか。ただ一人、スッキリしてないのは僕の隣に座っているロシア人くらいか。
 「ゆき、かんぶつえ、て、何?」
 ほら来た。やっぱりその質問か。とりあえず、昨日鰐木田先輩に教えてもらったことをそのまま伝えるしかない、か。
 「えっとな、灌仏会っていうのは、お釈迦様の誕生日パーティーで、それをお祝いするって感じかな」
 「ゆき、よく、分からない」
 そりゃそうだろうよ。僕だってよく分かっていないんだから。
 「灌仏会、っていうのはね」
 僕とは反対側の、ナスチャの隣に座っている月極さんから助け船が送られる。
 「もともとは仏教の開祖である釈迦の誕生日を祝うもので、宗派によって竜華会や浴仏会、花祭なんて色んな名前で呼ばれたりしているけれども、やっていることはどれもだいたい同じなの。やりかたを簡単に説明すると、あそこの桶の中にお釈迦様の像が立っているでしょ?あの桶の中には甘茶が入っているんだけど、それを柄杓で像にかけてお祝いするの。そして、それが終わった後にその甘茶でお茶会をして楽しみましょう、という会なのよ。ちなみに、この甘茶で習字をすると字が上達するっていう言い伝えもあるから書道部の皆さんも招待したというわけ。何か質問はあるかしら?」
 「ない、です。分かりやすくて、よかたです。ありがとございます」
 うん。ものすごく分かりやすかったです。
 「どういたしまして。あ、そろそろ私達の順番ですね。ナスチャさん、一緒に行きましょう。」
 「はい。ゆきも、いくよ?」
 行きますよ。行くから手を差し出さないで。さっきは人がいなかったから差し出された手を握ったけど、今は状況が違う。こんなに人がいる前で、手なんて繋げませんよ。
 「犬島君、女の子の誘いには素直に応じないとダメですよ」
 はい、分かりました。犬島夕貴、女性の誘いを断るような野暮な男では決してございません。ですので、そのような恐ろしい顔で僕を見ないでいただけますでしょうか?
 意を決し、ナスチャの小さな手を取って像に向かって歩き出す。やはり何人かの視線は気になったが、像の前に来ると、それもどうでもよくなった。よく、神社仏閣に入ると心が清められて無我の境地に達する、なんて話のように僕も悟りを開いて――本当のところはただ単に像の大きさに圧倒されていただけだったのだが。改めて目の前に立ってみると本当に大きさがよく分かる。一番高いところで天井ギリギリなのだから二メートル近くはあるだろう。横に立っているナスチャの身長と比べても像の腰辺りまでしかないのだから。
 おっと、本来の主旨まで忘れてしまっていた。いかにもな金細工が施された台座に置かれた柄杓を手に取り、桶の中の甘茶をすくって像にかける。何度かそれを繰り返すと、何となくだが心が洗われていく気分になった。こういうのもたまには悪くないかもしれないな。
 「ゆき、しゃしん、いいですか?」
 日本の文化に興味があるというならこの会はいい記念になることだろう。服をはだけたりさせないことを条件に、それを承諾する。はだけさせない、ということで少し不満げそうに見えたのは僕の見間違いか何かだろう。
 この場にいる全員が一通り像に甘茶をかけ終わったところで、灌仏会はただのお茶会へと移行した。僕も生まれて初めて甘茶というものを口にしてみたのだが何とも形容し難い味だった。しかし、どことなく懐かしい気分に浸ることができたのでよしとしよう。
 ナスチャはナスチャで、これがとても気に入ったらしく、何度もおかわりをしていた。多分、用意してあった甘茶の半分近くがナスチャの胃へと流し込まれたと言っても過言ではないと思う。彼女曰く甘茶はバーブシカの味がするそうだが、バーブシカとは一体何なのだろう、ロシアの郷土料理か何かだろうか。
 そうこうしているうちに、予め用意してあった甘茶もなくなり、そろそろ解散かという空気が漂いはじめた。時間も下校時間が迫っていたのでちょうどいい頃合いだ。
 「本日は我々年間行事部の主催する灌仏会に参加してくれて本当に感謝する。また機会があればよろしく頼む。以上、解散」
 部長からの最後の挨拶を合図にぞろぞろと列をなして参加者達は出て行った。残されたのは僕たち年間行事部の三人と物好きなロシア人が一人。部長がナスチャに話しかける。
 「アナスタシア、初めての灌仏会はどうだった?」
 「ナスチャ、でいいです、よ。かんぶつえ、とても、たのしかたです」