つるさんのひとこえ 4月編 其の二
やはり雨上がりの四月の空気は冷たい。階段を下りたところで鼻水が出そうになったので鼻をすすった。
「あんた達、遅かったじゃないの。変なことしてたんじゃないでしょうね?」
保健室へ戻ったなりにこの台詞。まあ服は脱いでいたかもしれないが、それだけだ。やましいことは一切していない。そうだろ?ナスチャ。
「ゆき、は、ふく、着てるが、着エロが、好きです」
ああ、なるほど。こうして僕の性癖は広まっていくのか。って、このロシア娘は顔いっぱいに嬉しさを表現させて何を言ってるんだ?!確かに今日、僕は新しい性癖に目覚めたかもしれない。けれどもそれを広めることに何の意味があるというのだ。
「あのね、犬島君。何だかよく分からないのだけど、日本に来たばかりの子にそういう言葉ばかり教えてもらっちゃ、困るのよね」
あの、無表情で怒るのだけは本当にやめてください。般若の顔より怖いです。そして誤解だ!僕は一言もそんな言葉を教えた覚えはないぞ!――けど、どれだけナスチャが最初から知ってたなんて言っても、それこそ信じてはもらえないんだろう。
「すみませんでした」
「せんせ、ゆき、わるいの、した?」
何故そうなる?元はといえばキミがあんなことを言い出すからじゃないか!だいたいどうして日本に来たばかりのロシア人がそんな言葉ばかり知ってるんだよ!おかしいじゃないか!なんてことはこの表情になったこの子には何があっても、地が裂け空が割れ、世界が核の炎に包まれようとも絶対に言えないわけで。
「あなたは気にしなくていいのよ。あんたはちゃんと反省しておくこと。次に何かしたら、いくら馬鹿なあなたでも、分かるわよね?」
「分かりました。反省します」
この人の前では僕の持論其の弐なんて、有って無いようなもの。生への欲求から本能的に頭を下げる。
「だったら、そろそろ出て行ってちょうだい。ここは何ともない生徒の居るところじゃないの」
その通りだ。第一この空気の中、いつまでもここに居たくない。
「はい。ナスチャ、行こうか」
「行き、ます。せんせ、さよなら」
「はい、さようなら」
ナスチャにはにこやかに手を振る小橋先生。呼び止められることはなかったので、そのまま廊下に出て扉を閉める。時間は三時三十二分。特に行くべき所もないので、少し早いが礼法室へ向かおうか。何か手伝うこともあるだろうし。
「僕は今から礼法室に行くけど、ナスチャはどうする?」
「れいほしつ、て、かんぶつえの、とこ?わたし、も行きたい、です」
そう言ってまた僕のブレザーを掴む小さな白い手。
「さ、しゅぱつです」
なるべく人目に付かないように気を付けながら礼法室へ。既に授業が終わっている時間のため至る所に生徒がいたが、何とかブレザーを掴んでいる手には気付かれずにたどり着くことができた。
校舎の中では異質な、木でできた格子戸を引く。中にいたのは和服を着た月極さんと、右手の人差し指を天に向けた巨大な釈迦の像。確かに、この大きさなら今開けた格子戸から運び込むのは困難だろう。だからって何もクレーンを使わなくても、もう一回り小さいサイズにするとかできたでしょうに。入部してしまったとは言えつくづくおかしな部だ。
「あら、早かったですね。そちらの子は、留学生のアナスタシアさん、かしら?私は月極絹香、と申します。部長の鶴瀬から話は聞いていますが、灌仏会の参加希望者、ということでよろしいでしょうか?」
「はじめまして。わたしは、アナスタシア、です。ナスチャ、て呼でください。ロシアから、きました。にほんのぶんか、とても、きょみあります。よろしくおねがいます。」
今日既に何度か目にしたやりとり。
「そうですか。それではナスチャさん、楽しんでいってくださいね。ところで犬島君、少しいいかしら?」
月極さんに呼ばれたので上履きを脱いで、巨大な釈迦の像が鎮座する三十畳ほどの和室へと足を踏み入れる。
「何でしょうか?何か手伝うことでもあれば言ってください」
「準備はもうあらかた終わってしまったから、特に手伝ってもらいたいことはないわ。ただ、帰る時にはあれを持っていってほしくて」
釈迦ではなく、月極さんの右手の人差し指が向けられたのは、和室特有の土壁に立てかけられていた見覚えのあるピンク色で花柄の、傘。
「ど、どうしてあの傘がここに?というか何で僕のだって知ってるんですか?」
完璧に忘れていた。今日、学校で起きた全ての不幸の原因になったコイツの存在を。
「今日の昼休みに鰐木田君が持ってきてくれたのよ。例の巡視をしていたらたまたま見つけたんですって。これはきっと犬島君のだから、私から渡してやって欲しいって頼まれてたの」
そういうことですか。でも、どうして鰐木田先輩はこれが僕のだって知ってたんだ?それに、これから二人でマキの件を調査するんだから、月極さんに頼まなくても、直接渡せばいいだろうに。
「分かりました。とにかくありがとうございます。これから部室に行って、鰐木田先輩と昨日のことを色々調べるんで、ナスチャをお願いしてもいいですか?」
「いいですよ。あ、でも部室には行かない方がいいかも。鰐木田君、今日は一人で調査したいって言ってましたから」
あれ?でも昨日は二人で調べるって言ってたのに。もしかして、まだ僕のことを同性愛者だと思っていて、部室という密室で二人きりになるのを避けてるんじゃ――。
「あの、つかぬことを聞きますが、昨日のあれ、僕が同性愛者だって言ってたのは、冗談で言ってたんですよね?僕は女性の方が好きなんですけど」
「ゆき、は着エロが、すき」
そこで口をはさむんじゃない。またしても、いきなり何を言い出すんだ。
「そうなんですか。私は鰐木田君がそう言ってたものですから、つい犬島君は同性愛者だとばかり――。本当にすみませんでした。そうなんですか。犬島君は着エロが好きな両刀使いさんだったんですね」
「ゆき、ばいせくしゃる」
開いた口を塞ぐために、僕は何をすればいいのだろうか。誰か人の手を使わなければこの口を閉じるのは容易なことではない。
「最後の甘茶の用意ができたぞ。おっ、犬島君にアナスタシアか。ずいぶんやる気があるようだな」
手に大きなヤカンを持った鶴瀬部長の登場。果たして、僕の口を塞ぐ救世主になってくれるのか。
「かんぶつえ、たのしみ。はやく、しよ」
「そう急かすな。まだ始めるには早いからな。ところで、どうして犬島君は固まっているのだ?」
「部長、聞いてくださいよ!僕は――」
「何でもないわ。それより香苗、甘茶ありがとうね」
僕の訴えを遮る月極さん。横顔が、今朝の寝起き般若より怖く見えたのは気のせいではないと思う。
「それならいいのだが。何かあればすぐに言うように。微力ながら力になるからな」
「あ、ありがとうございます」
「うむ。それでは私は他の参加者達を呼んでくることとしよう。全員揃い次第、始めるからな」
僕の救世主になり得たであろう人は、颯爽とここから立ち去った。大きなヤカン一つを残して。
「あの、僕、何かマズいこと言いました?」
作品名:つるさんのひとこえ 4月編 其の二 作家名:島UMA