つるさんのひとこえ 4月編 其の二
馬鹿と言われ続けるうちに、どうやら僕は本物の馬鹿になってしまったようだ。聞けばそこへ行かざるを得ない状況に追い込まれるのは十分予測できたはずなのに。どうして聞き返してしまったのだろう。
「分かった。分かりましたよ」
「ありがとございます」
僕に新たな弱点が生まれた瞬間。マキの真剣な顔と同じくらい、ナスチャの少し困ったような顔には物凄い破壊力がある。もしこの破壊力を何か別の運動エネルギーに置き換えることができるなら、巨木を薙ぎ倒すくらいわけないはずだ。
「ここから近いのは――そうだな、まずは第二体育館からにするか」
「りょかいです。しゅぱつ」
突き当たりまで廊下を進んで、右手に見える階段を上る。そして体育館に通じる廊下の前を通り過ぎれば目的の第二体育館用具庫。保健室の場所を知らなかったのにこの場所を知っていたからといってそんな目で――って、どうしてこの子の目はこんなに輝いてるのでしょうか。少女漫画特有の目の中にお星様が、っていうのも過剰描写じゃなかったんだなと思い知らされる今日この頃。こら、二の腕を引っ張るんじゃない。どうせ鍵が掛かってるんだから開か――開いてるの?
「ゆき、はやく。ここ、おたから、いぱい」
お宝って何だ。僕には鉄棒やマット、バスケやバレーなんかのボールにしか見えないぞ。
「そんなに興奮して、どうしたんだ?」
「これと、これ、あとこれも!ぜんぶ、エロゲで見たのとおなじ、です」
立ち眩みがする。今朝転んだときに頭も強く打っていたみたいだ。
「一応確認するけど、ナスチャは日本語の勉強のために日本に来たんだよね?」
「あたりまえ。にほんごと、にほんのぶんか、勉強する好きです。」
なるほど。さっきの部長からの申し出をあれだけ眩しい笑顔で受け入れたのはそういうことか。それはいいとして、いつから体育館の用具庫が日本の文化になったのか分かる人がいたら今すぐ助けに来てください。平々凡々だった頭が退化して馬鹿になった僕にはさっぱり理解ができません。
「ゆき、しゃしん、おねがいます」
いつの間にか取り出されていたデジカメを手渡される。写真ぐらいは、いいか。まあ、よくよく考えてもみれば、趣味なんて人それぞれだし、体育館用具庫が好きな女の子がいたとしてもさしたる問題ではないのでは。そうだよ。さっきから時折聞こえてくる『エロゲ』なんていかがわしい単語も、ただ単に言葉の意味を知らなかっただけなのかもしれないし。後でちゃんとした単語を教えてやらな――。
「どうして服を脱いでいるのでありますのか?」
動揺しすぎて言葉が滅茶苦茶だ。
「ここ、用具庫。エロゲ、ふく、いらない、よ」
つまり、この状態を写真に撮れ、と?一糸まとわぬあなたを?
先ほどの僕の心配は杞憂に終わったみたいだ。彼女はエロゲという単語の意味を知っている。というか恐らく既にプレイ済みだ。僕でさえまだなのに。
「ゆき、まだ?かぜひくから、早く」
急かされても、どうすればいいんだよ。一部のマニアには涎を垂らして喜ぶほどの堪らない状況かもしれないが、生憎僕にはそんな趣味はないし。とりあえず今は何か身につけさせないと、目のやり場に困る。
「写真なら撮ってあげるから、とにかく服着てくれないか?」
「どして?あ、もしかして、ゆきは着エロ、好きですか?」
コイツ、本当にロシア人か?何でそんな言葉ばっかり知ってるんだ。
――待てよ。ここで僕が着エロ好きってことにしておけば、おとなしく服を着てくれるんじゃなかろうか。試してみる価値はあるだろう。
「そうなんだよ。僕は着エロが好きなんだ。だから服を着てくれないかな」
今とっさに作った性癖とはいえ、知り合ったばかりの女の子にそれを告白するなんて精神的にどうにかなってしまいそうになる。
「わかた、ふくきる。学この中、おしえてもらてる、おれい。」
やけにあっさりだった。――お礼、か。つまり、この子の中の僕のイメージは着エロが好きなただの変態ということになってしまったんだろうな。まあ何にせよ服を着させることができたんだから結果オーライさ。そうとも、僕は正しいことをしたんだ。裸の女の子の写真を撮ることと、服を着た女の子の写真を撮ることを比べたら圧倒的に前者の方が変態度は上じゃないか。
「ゆき、ふく、着たよ。似合てる?」
――何故だろう。服を着ているはずなのに、先ほどより色っぽさが増しているように感じるのは。はだけた胸元と少し乱れてしまった髪が、よりそれを強調している。着エロっていうのも悪くないな、と思ってしまった僕はどうやらただの変態だったようだ。
「――それじゃ撮るぞ」
モニターに映る満面の笑み。顔だけ見ればとても微笑ましい一枚になるんだろうな。二、三枚撮って、彼女にデジカメを返す。
「ありがと。つぎ、おくじょね」
次は屋上か。正確には、屋上へ続く階段、だけど。今日日、屋上を開放している学校なんて、それこそ漫画やゲームの中だけだ。そのことをこの子は知っているのだろうか。
「わたし、おくじょでこくはくされる、夢でした」
輝いてる。輝いてますよ。こんな風にきらきらと夢を語る女の子に、『屋上は危ないから開いてません』なんて残酷な現実を突きつけるなんて、僕にはできません。でも、もし言わなければ現実と向き合ってしまった彼女を余計に傷つけてしまうかもしれない。
ナスチャの夢や理想の人、なんて話を聞き流しつつ、どうしたものかと思案を巡らせているうちに階段の前まで来てしまった。この階段を数十段上ってしまえば、彼女は無慈悲な現実と向き合うことになる。屋上でドラマチックに告白される、なんてのは所詮夢の中だけで起きるイベントなのだから。
「ゆき、なにしてる?はやく、いこ」
言うべきか、言わざるべきか。――よし、僕だって男だ。馬鹿でもただの変態でもない。言ってやろうじゃないか。
「あのさ、ナスチャ。普通の学校ってのは危ないから屋上に入れな――」
「ゆき、はやく、おいで」
先程の用具庫といい、屋上といい、どうして開いているのでしょうか。
何となく、ただ何となくですが犬島夕貴十五歳、男としての敗北感を味わっております。
「すごい、ね。遠く、よく見える、ね」
屋上に出てみると、朝はひどかった雨もあがって今は鉛色の雲が遠くまで続いているだけ。所々に出来た水たまりを避けながらフェンスの側まで近付いてみる。
「でも、ロシア、見えないね」
もし雲一つ無い天気だったとしても、さすがにロシアまでは見えないだろう。
「それじゃ、しゃしん、おねがいます」
デジカメを僕に渡し、ブレザーの中のブラウスのボタンを外して胸元をはだけさせる。この子はどうしてもそういう写真を撮りたいのか。
「分かてる、よ。ゆきは、着エロ好き、だもんね」
屈託のない笑顔でさっきまではなかった僕の性癖の再確認。自分から言い出したことなのに、ここまで心に刺さるとは思わなかった。ナスチャの中では『僕=着エロ』という公式が成り立っているんだろう。もういいさ。諦めが肝心です。
「じゃあ撮るぞ、チーズ」
フェンス越しに見える風景をバックに、ここでも三枚の写真を撮って屋上を後にする。
作品名:つるさんのひとこえ 4月編 其の二 作家名:島UMA