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つるさんのひとこえ 4月編 其の二

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 「ん、――もう、何よ?人の貴重な睡眠時間を邪魔して。どこの馬鹿よ?こんな朝早くから怪我する奴は」
 馬鹿と言われるのは今日既に二回目。しかも今回は一回目とは違って全く知らない人に言われてしまった。僕の硝子のハートにそろそろひびが入ってもおかしくはないのではないだろうか。
 「で、どうしたの?」
 渋々といった感じでベッドから出てきたその先生――小橋先生はさも面倒くさそうに僕に尋ねた。
 「廊下で滑って、転んだんです」
 ありのままの事実。これしか言いようがない。
 「はあ?あんた馬鹿?」
 どこかの某キャラクターが言っていたような台詞。ツンデレな幼なじみなんかが言う分には可愛げがあるのかもしれないが、初めて会った人に面と向かって言われるのはなかなか心に刺さる。続けざまの三回目で、ひびの入った僕の心は後もう一押しで木っ端微塵にできそうだ。
 「ごめんね、犬島君。小橋先生って朝はいつもこんな感じなの」
 「コラ。誰が寝起き般若だ?そんなんだから涼子はガキにナメられるんだよ」
 誰もそんなこと言ってないのに。でも、確かに。何となく分かる。この人は白衣を着た般若だ。今のこの人なら何人か人を殺していても全く不思議ではない。朝の一番サボりたいであろうこの時間に何故誰も人がいなかったのか分かった気がする。
 「ナメられてなんかいませんよ。私の生徒はみんないい子達ですから」
 「まあいいや。とりあえずあんたはこの子を置いてさっさと教室に戻んな。もうとっくにHRの始まってる時間だろ」
 ハッとした顔で壁に掛かった時計に目をやると、徐々に青ざめていく矢沢先生。
 「それじゃあ私、行きますね!犬島君のこと、よろしくお願いします」
 僕の身柄を寝起き般若に引き渡すと、飛び出すように保健室から出ていった。何だか最近、初対面の人と二人きりになるシチュエーションばかりな気がしないでもない。
 「さて、あんた。ちょっと鼻見せてみな」
 言われた通りに押さえていたティッシュを取り、鼻を露出させる。久しぶりに外気に触れた鼻は何だかむず痒かった。
 「ふん。折れちゃいないみたいだね。これで冷やせば何とかなるだろ」
 冷凍庫から取り出されたのはカチカチになった冷却材。よく、ケーキ屋さんなんかでケーキと一緒に箱に入れる、凍らせたゲル状のものをビニールで包んだようなアレ。
 鼻血が出たときは鼻に氷でも何でも冷たいものを当てること。そうすれば痛みを麻痺させ、血管が収縮して出血が早く収まるのだそうだ。昔、よくケンカした幼なじみからのこんな言葉を思い出した。
 受け取ったものをそのまま鼻に当てるのは気が引けたので、テーブルの上に積んであった白いガーゼを一枚失敬して冷却材を包ませてもらう。こうしておけばもし血が付いてもガーゼを取り替えればそれで済むだろう。衛生観念は大事だからな。
 「あんた、なに勝手に人の部屋の備品使ってんのさ?」
 へ?何で怒られてるんだ、僕?
 「す、すいません!今戻しますから」
 此方にあからさまな非がなかったとしても、相手が怒っているならとりあえず謝ってしまうのも人間の性。というのが僕の持論其の弐。
 「戻すんじゃねえ!お前の不潔な手で汚染されたガーゼをまだ使用前の山に戻したらどうなるのか、そのネズミ以下の大きさの頭で考えてみろや!馬鹿ガキが」
 確かに、人の手に触れたガーゼを元の場所に戻そうとしたのは僕の愚考だった。だが、その愚考を悔いさせるにしては辛辣すぎる言葉に僕の涙腺は決壊しかけている。
 「だいたいあんたが転ばなけりゃ――」
 今まさに始まらんとしていた怒濤の言葉責めを遮るようにして、一時限目の授業の開始を告げるチャイムが鳴った。いつもなら憂鬱を誘うようなこの電子的な鐘の音も、この時ばかりは天界で鳴らされた福音のように聞こえた。
 「あの、授業始まっちゃうんで、失礼します。これ、ありがとうございます」
 「あ、ちょっとあんた待ちなさ――」
 般若せんせ――もとい小橋先生の話が耳に入らないようにしてさっさと保健室を出る。ここに居続けた方がよっぽど体に悪そうだ。さっさと教室に戻って机に突っ伏して寝てた方が
ゆっくり休めるだろう。
 「失礼します。保健室行ってたんで遅れ――」
 無人の教室。壁に掲示されている時間割で確認してみても、金曜日のこの時間は移動教室にはなっていない。
 何だというのだ全く。念のため、他の教室の様子も廊下から伺ってみたが授業を行っている気配が全くない。僕だけを残して人類が滅んでしまったとでもいうのだろうか。ひとまず落ち着こう。鼻も痛むことだし自分の教室に戻って、自分の席につく。ゆっくり考えるのはそれからでも遅くはないさ。
 そういえば、この鼻の痛みの原因になったあれ、あのピンクの花柄傘はどうしたっけ。確か、玄関に持って行く途中で転んで、あの子、アナスタシア、だっけ?に会ってティッシュと肩を貸してもらったときにはもう傘は腕の中になかった。だとすればまだあの辺りに落ちている可能性が――。居ても立ってもいられず、気が付いたときには既に今朝転んだ現場へと走り出していた。誰かに持ち去られてしまう前に回収しなければ。
僕のことを好きなだけ馬鹿だと罵るがいいさ。砕けてしまった心はもうこれ以上砕かれることはないのだから。忘れていましたとも、どうして転んだのかを。湿った廊下に再び足を滑らせた僕は今日三度目のキスを廊下に捧げ、視界はそのままブラックアウトしていった。

 今朝は感じることのなかった眩しさに目が滲みる。――ここは、どこだ?限りなく細く瞼を開けてみる。
 「知らない、蛍光灯だ」
 言ってから気付く、某キャラクターのような台詞。幸い、横には青い髪の女の子は座っていなかったが、代わりに腰まである金色の髪を伸ばした青い目のフランス人形のような女の子が立っていた。
 「あ、起きた。ね、せんせ、彼、起きた、よ」
 「あい了解。そのまんま寝かしときな」
 その声はアナスタシアと般若、か?ということはここは保健室のベッドか。
 「やぱり、だいじょぶじゃ、なかたみたいね。ハナ、まだいたい?」
 「ん、何とか大丈夫。ところで今、何時か分かる?」
 「いま、は、えと、午後にじ、よんじゅう、はち分です」
 ということは何だ。結局今日も授業をすっぽかしてしまったということか。この学校に入学してからまだ一度もまともに授業を受けていない。この調子で大丈夫なのだろうか。
 そして、それよりも、どうしてこの子がここにいるのだろうか?
 「えっと、アナスタシア、だよね?どうしてここに?」
 「はい。あ、ナスチャて呼んでください、ね。わたしは、今日、あいさつだけ、来ました。だからヒマです」
 なるほど。さっぱり話の中身が見えてこない。暇なのは分かったのだけれど、つまり、どういうことだってばよ?
 「寝ないんならさっさとそこ出なさいよ。横になりたいのはあんただけじゃないんだから」
 般若、ではなく小橋先生の声だ。この人にそう言われてしまっては大人しく出ていくしかない。いそいそとベッドから出て、恐る恐る屈伸してみる。どうやら膝はもう大丈夫そうだ。
 「もう、だいじょぶ?はなから血、いぱい出てた、からしんぱいした、よ」