ココロノオト
世界を愛した旅人
世界を愛した旅人がいました。
荒れ果てた荒野も、忘れられた街の遺跡も、犯罪にまみれた国も、美しく花が咲き乱れる国も、全てを愛した旅人がいました。
その旅人は決まってこう言いました。
「ああ、世界はなんて素晴らしいのだろう」
と。
自分が争いに巻き込まれたときでさえ、旅人はその言葉を言いました。
「この世界のなにがすばらしいの?」
あるとき、どこかの国で旅人にそう尋ねた子供がいました。まだ己を世界の中心だと疑わずにいられる、幸せな幼子。
その子供に向かって旅人はにっこりと笑顔を返しました。
「すべてさ。世界は、世界であることが素晴らしいんだよ。そしてそこに人が生きていることがね」
「ふぅん」
その子はそう言ったきり何も尋ねませんでした。
そして、旅人が次の日に見たものは争いが繰り広げられてめちゃくちゃにされた町並みでした。
「……なんてことだ……」
呆然と呟いた旅人の視線の先には一人の子供が血を流して倒れていました。
そう、昨日旅人にこの世界の素晴らしさについて聞いた子供が。
「こ……れで、も……せか、い、は……すばらしい、の……?」
深い緑の、長い年月に寄り落ちない汚れの付いた外套(マント)をひるがえし、その子供に近づけばまだかろうじて息のあったその子がそう囁きました。
けれど、その子供は旅人の答えを聞くことはありませんでした。
聞く前にその子の小さな命は死神が奪い去ってしまったから。
「……っ……なんて、哀しいことだ……」
旅人は人目もはばからずその小さな子供の身体を抱き締めて泣きました。
決して大声ではなかったけれど、透明で純粋な涙で頬を濡らしその身体に押し付けて泣き続けました。
周りで銃声が轟いても、逃げ惑う人々に蹴られ、ときに邪魔だと罵倒されてもその場から動かずに静かにほとほとと涙を流し続けました。
その子供のために。
泣いて泣いて、涙も枯れ果ててその子の亡骸に旅人の涙が染み渡ってしまった頃、ようやくそっとその子供身体から腕を放しその場に寝かせました。
しゃらり、と懐から金色の鎖と共に華奢な十字架が現れ、旅人は静かに……本当に静かに両手でぎゅっと十字架を握りしめました。
「……それでもね、わたしはこの世界を素晴らしいと思ってしまうんだよ」
そう、言って。
旅人は立ち上がるともう一度だけ、もう魂はこの世にはない子供に向かって優しい声色で呟きました。
「……どうか、安らかに。小さく、無垢な魂よ」
旅人はその国を去りました。
そうして、何度も誰かが死ぬ場面に直面しては、その度に泣いて泣き続けて言葉をかけていきました。
ときには目の前で幸せを誓った人もいました。
旅人は、そのどちらの場面でも必ず同じ言葉を口にしました。
どれほど人が疑問に思っても、否定したとしても、旅人はその言葉を変えることはありませんでした。
「いつまで同じ言葉をほざいてられるか、旅人?」
ある国で、旅人は銃を突き付けられました。理由は分かりませんでした。もしかしたらなかったのかもしれません。
けれど旅人は逃げるでもなく、許しを請うわけでもなく、ただ静かな瞳で銃を突き付けている相手を見つめるだけでした。
その態度にさらに苛ついたのか、完璧に武装して銃を突き付けている相手は旅人の額にごつんと銃口を当てたのです。
「……わたしは、誰が何と言おうと、たとえ銃を突き付けられようと同じ言葉を言う。この世界は素晴らしい、と。そうは思わないかい?」
「はは! それはこの世界の王にでもなってから言うんだな。まぁ、どうせ無理だろうけどな!!」
興ざめしたのか武装した相手は銃を下ろし、嘲笑を含めながら去っていきました。
旅人は変わらぬ動作でまた道を歩き始め、その国を去っていきました。
いつでも緩やかに、誰かに流されることなくあてのない旅を続けていく旅人はいつしかどこの国に行っても知られるようになっていたのです。
ときは過ぎていきます。
誰かが生きていようと、どこかで死んでしまおうと、歩いていようと、食べていようと、そんなのはおかまいなしに。
そして、旅人もまた、その旅人とは全く無関係にときは進んでいきいつしか年を重ねていました。
旅人が最後に見たのは空を輝かんばかりに支配している太陽でした。
旅人が最後に感じたのは太陽の輝きを熱として取り込んだ砂漠の砂でした。
旅人が最後に言葉を交わしたのは通りかかった旅商人でした。
旅人が最後に口にしたのはほんの一口分の水でした。
そして、旅人が最後に口にしたのはとても純粋で、無垢な気持ちでした。
「わたしは人を愛している……たとえ銃を向けられたとしても愛している。……そう、だからわたしは世界を愛しているんだ……なによりも」
旅人の最期の言葉を聞くことができたのは、厳しい砂漠で暮らしている砂漠の民の少女でした。
旅人はそして最後に言葉を残したのです。
「……ああ……世界はなんて素晴らしいのだろう」
……と。
そしてひとりの少女の前で世界と、そこに生きる人を愛した旅人はその世界を旅立ったのでした。
「旅人はどこへ行ったの?」
「きっと、神様のお庭よ。もしかしたらまた旅を続けているかもしれないわね……こんな混沌とした世界と、愚かな人を最後まで愛し続けたのだから」
決して英雄とは言えない、ただふらりふらりと旅を続けていた旅人の話は一人の少女から伝えられ、この世界にだんだんと染み渡っていった。
そして今日も、どこかの国で旅人の言葉は紡がれる。
───世界は、なんと素晴らしいのだろう