ローザリアン
受話器の向こうから、車の走る音がひっきりなしに聞こえた。おそらくは道路わきのテレフォンボックスだろう。最近はその数も減ってきているから、大体どのあたりからの電話かはわかった。いくつかの場所が頭に浮かぶ。
ここからだとどのぐらいかかるかを考えて、ふと僕は我に返った。ローザは別に、僕に会うために電話をしたわけじゃない。ただ本当に嬉しくて電話をかけてきただけなのに、何を勘違いしているんだ。
僕はこのとき初めて、自分の中の薄汚い感情を知ることになった。自分のことなのに、ぞっとした。ざわつく肌を押さえるように、僕は右手を首の後ろにやる。意味もなく撫でた。
汗をかいていた。
「ねぇパパ、サイモンに会いに行ってもいい?」
遠くからローザの声が聞こえ、また近くなる。
ああローザ……僕に、そんなことをしないで。
「サイモン、サイモンにパパを紹介するわ! パパにもサイモンを紹介したいの、ねぇいいでしょ?」
「あ、ああ。大丈夫だよ」
「よかった! 私、ちょうどセントラルビルの近くにいるの、そばのカフェで待ってるわ!」
ガチャリと電話が切れ、断続的な電子音が流れ始めた。
僕はしばらくの間、頭の芯がぼやけたみたいに、ただじっと立っていた。
そのカフェはビル近くの大通りから脇にそれた路地にあった。邪魔にならないよう自転車を停めて、店のドアに手をかける。ガラス張りのドアに鉄製のシンプルなノブ。現代的だなと思ったが、安直な発想だ、とすぐに落ち込む。こんなだから、デイジーに原稿の修正を食らうんだ。それも、かなり頻繁に。
ここに来るまで、自転車を走らせながら色んなことを考えた。ローザの父親とは、どういう人間なのだろうか。顔立ちはどうかわからないけれど、優しそうな人だろうと思った。ローザがあんなに可憐なんだから、きっと父親もそんな感じだろう、と。いや、そうであって欲しい。僕の願望だ。ローザとの関係を問いただされた時、僕は何と弁解しても変質者に思われそうで、それが怖い。だから出来れば優しい人がいい。幼い頃、先生に怒られるのが何よりも嫌だった僕の記憶は、こんなところでまた姿を現したのだった。とにかく、憂鬱だ。ローザを家に入れたのはやっぱりまずかった。
ウエイターが訝しげにこっちを見ていたので、僕は慌てて店内に入った。空調のおかげで、店内は心地よい温度に保たれている。
「サイモン!」
ローザが声と共にそばへ寄ってきた。
僕はとても驚いた。
淡いピンク色のコートに、裾からちらりと見える真っ赤なフリル付きのスカート。焦げ茶色のブーツは細やかな編上げ。そしてなにより、彼女は帽子をかぶっていなかった。
長い金色の髪はふわっとカールし、肩からさらさらと流れている。前髪を頭上へやってピンで止めていたせいで、彼女のゆで卵のような肌がよく見えた。白くてみずみずしい肌は、誰の侵入も許さないようだ。
冬の湖のように透き通った目が、僕を見ている。
「いらっしゃい!」
喜びにきらめく瞳に見つめられて、僕は頭がくらくらした。どうしたって僕は、ローザに惹かれてしまうんだ。
後ろから押されて、僕は席についた。
向かいにいたのは初老の男だった。僕とその男をはさんで、間にローザが座る。僕たちは丸テーブルを三人で囲うことになった。
「パパ、この人がサイモンよ」
ローザの父親は、僕が思っていたというか、期待していた人物とは真逆の人間だった。顔に刻まれた皺は深く、やや窪み始めた目元は少しかげり、奥から覗く視線を一掃際立たせる。
少しだけ地の色が残った髪は白い。
厳格そうな人だった。
「サイモン、この人が私のパパ」
にこにこしながらローザは僕にいったけれど、僕は正直、何を話せばいいのかわからない。
緊張する。
「はじめまして……」
今にも固まりそうな体を叱咤してとりあえず手を差し出すと、向こうは無言で握り返してきた。手を払われたらどうしよう、という心配は杞憂に終わったけれど、言葉を交わせなかったことに僕は焦りを感じた。この人は僕のことをどう思っているんだろう、という一文だけが頭の中で螺旋を描きながら蠢きあっている。
音もなくやってきたウエイトレスが、ローザにアップルジュースを、僕たちにコーヒーを置いた。
「サイモンの分も頼んでおいたの。コーヒーでよかった?」
「ああ、うん。ありがとう」
お金を払おうとしたけれど、ローザの父親にそれを止められた。申し訳ないと思いつつ、甘えることにする。
「ありがとうございます」
「いや」
この二文字が、僕と彼の初めての会話だった。
コーヒーを飲む。
苦い。
それしか浮かばない。
「私の留守中、ローザが世話になったそうだね」
もしやこの沈黙がずっと続くのかと不安になっていたけれど、予想外にも会話はすぐに始まった。彼がローザと呼んだことに、僕は神経が過敏になるのを感じた。僕も彼も、同じ呼び方でローザを呼んでいる。
みっともない競争心だ。
いや、僕は何を考えているんだ? 親が子供の名前を呼ぶのは当たり前じゃないか。
「礼を言おう」
彼はさっきから、ずっと僕の顔を見ている。居心地の悪さにそっと目をそらす。それでも、視線が離れる気配はなかった。
「自己紹介がまだだったな」
ソーサーの上に置かれたカップが軽い音を立てた。
「コリン・ハーバーだ」
「サイモンです。サイモン・グイニ」
唐突に始まった会話に僕の頭がついていかない。それでも口は勝手に喋り出すものだから、僕はますます気が動転した。とにかく緊張してどうにかなりそうだ。視界の端に少しだけうつるローザは、僕のコーヒーの香りを嗅いだりスプーンで混ぜたりしている。コーヒーが珍しいのだろうか。
「ローザから聞いているよ、ずいぶんよくしてくれたと」
「いえ、そんな……大したことなんて何も」
コリンさんの声に僕は慌てて向き直った。太い縄で引っ張られるような感覚だ。それでも若干の希望を込めてローザを見る。なんとか僕たちの会話に入ってきてはくれないだろうか。しかしローザはジュースに夢中になっていた。
コリンさんの視線が鋭くなった気がして、僕は慌ててローザから目を離した。
「ローザとは、どんな話をしたのかね?」
「お買い物の話をしたわ!」
飛び込んできたローザの声に僕はほっとした。ようやく緊張の糸が緩み始める。
相づちの代わりに、コリンさんはローザの頭を撫でている。その目が再びこちらを向いたとき、僕はこの場から逃げ出したくなった。ギラギラとした目が僕を見ているのだ。一体僕が何をしたっていうんだ!
「サイモン、留守中にローザの面倒を見てくれて本当に感謝している。今度うちへ食事に来なさい」
いきなりの提案に僕は思わず声を上げそうになった。一体何がどうなってそうなるんだ?
「ほんと? サイモンがうちに来るの?」
ローザが嬉しそうにこっちを見てくる。僕は断われなかった。どっちにしろ、コリンさんの視線からは逃れることなんて出来ないだろうけど。有無を言わせない空気がコリンさんから僕へと流れてくる。
「ねぇサイモンはいつくるの?」
ローザがコリンさんへ問う。コリンさんは尚も僕に話しかける。