ローザリアン
立ち上がって、玄関口に向かう。気まずい空気が部屋いっぱいに広がっていた。聞かなきゃよかったなんて今更思い返しても遅い。僕はどうにもこういう部分が女性に好かれないのだ、とデイジーにも言われたことがある。デイジー曰く、なぜかピンポイントで他人が気にしている部分を口にしてしまうらしい。それも悪意がないから余計にたちが悪いとか、なんとか。僕自身も気をつけようとはしているけれど、気がつくとこうなっているから毎度困ってしまう。
とにかくローザには悪いことをした。あまり気にしないでくれていたらいいけれど。
あれこれ考えながらドアノブに手をかけたとき、ローザがぽそりと呟いた気がした。
「何? どうしたの?」
聞き返すと、ローザはソファーの背に手をかけてこっちを向いた。それでもやっぱり、黒い帽子が顔を隠している。
「ううん、ごめんなさい。何でもないわ」
見えるはずのない瞳が僕を見ている気がした。
絡みつくようで、おびえるような視線。それが僕を見ている。
目深にかぶった拒絶をはがして。
◇ 何もいえない水曜日
ローザと出会って三日目。今日は水曜日の朝だ。
僕は自転車をとりに行くことにした。というのも、郵便受けに通達のチラシがねじ込まれていたからだった。僕の自転車は何者かに乗り捨てられていたあげく、回収されていたんだ。チラシの送り主は預かり所の係員だった。
ポケットの中の紙幣をにぎりしめる。預かり所に支払う代金が寸分の狂いもなくここに入っている。もちろんこれはデイジーのお金だ。出世払いでいいと僕に持たせてくれた。本当にありがたい。自転車がなくなってしまうと、僕の仕事はいつもより三割減になってしまう。
僕はいつもギリギリに原稿を作ってしまうため、配達を待つ時間さえ足りなくなる。だから原稿が完成すると自分で出版社に届けているんだけれど、徒歩じゃとても間に合わないから自転車を飛ばす。自転車が僕の生活を繋いでいるようなものだった。乱暴な運転のせいで何度か事故に遭いかけたりもした。
冷たい風に肩がすくむ。自転車に乗ればもっと風が冷たくなるだろう。冬はこれだから好きじゃない。背を丸めて縮こまっていると、陰気になってしまう。
ようやく見え始めた入り口の門に僕は駆け寄った。
「すみません」
声をかけると、すぐ横にあったドアから一人の男が出てきた。木でできたドアが軋んでいる。見慣れた風景だ。
「やっと来たか! 自転車見てすぐわかったぞ! 毎回毎回、お前には学習能力がないのか? あ? それでもライターか?」
「いや、僕はライターじゃなくて……」
言い正そうとしてやめた。プライドが許さないだけで、実際僕はライターだった。こんなのちっとも小説家じゃない。他の作家の足元にも及ばない。
「それで、自転車は?」
男が右手を突き出してきたので、僕はポケットの紙幣を渡した。このお金を生活費にあてられたらと思うと名残惜しいが、仕方ない。今を取るか、未来を取るかだ。
「あっちだ」
スクラップ置き場を指して男は言った。
なんてことだ!
「早すぎますよ、まだ二日しかたってないのに!」
「お前は毎回毎回撤去されすぎだから一度懲らしめてやろうと思ったんだよ!」
「ありえない! 人のものをそんな勝手に!」
「じゃ今度から気をつけるこったな」
さっさと帰れと追い立てられて僕は余計に腹が立った。言われるまでもない、こんなところさっさと出て行ってやる! 僕はスクラップ待ちの山から自転車を掘り返して、預かり所を飛び出した。今後は注意深くならなければいけないだろう。自転車がなくなったら本当に困る。
タイヤは空気が抜けていて走りにくくなっていた。
手で押しながら帰路をたどる。
空は高く、いくつか雲が浮いているのが見えた。風はやはり、冷たい。マフラーの隙間をかいくぐって、僕の首に氷のトゲが刺さるようだった。巻きなおしても変わらない。このマフラーも、最早ビンテージになりつつある。
ローザはどうしているだろう。今日も黒い服で肌を隠して出かけているのだろうか。冷気だけでなく、人の温かさもするりと避けているのだろうか。まるで鎧のように。
何だか寂しい。
まだ子供だというのに、そんな生き方はよくない。おせっかいだけど、子供は沢山の人と接して、豊かになるべきだ。
そもそもローザは、どうしてあんなふうになったんだろう。僕はその理由を知らなかった。昨日の帽子のことが、そのあたりのことと関係していることは想像がつく。
どうして肌を隠す必要が? 怪我の痕でもあるのだろうか。
なぜ怪我を?
事故?
虐待?
……。
だめだ。全然わからない。
自転車がキィキィと軋んだ。まるで僕を慰めてくれるみたいだ。
「疲れてるのかな」
少し笑うと、元気が出た気がした。
裏道を抜けて少し広い通りに出た。昨日通ったマーケットだ。今日もパンのいい香りが鼻をくすぐる。ウインドウから店内を覗くと、美味しそうなパンが並んでいた。たっぷりとバターを使って焼きあがった表面が艶やかに光っている。口の中に広がるパリッとした食感と豊かな麦の香りが食欲を誘う。
いや、だめだ。無駄な出費は破滅を招く。
欲望を振り払いパン屋を離れて、家路についた。
上がるたびに軋んで今にも落ちそうな階段を上ると、僕の部屋のあたりに黒い塊が置かれていた。宅配便なんてうちにはこない。じゃあ一体なんだ。嫌がらせを受けるようなことをした覚えもない。
不審な塊に、僕は恐る恐る近づいた。そして、たくさんのフリルを見て気付いた。
「ローザ?」
返事はないけど、ローザだった。よく見れば金色の髪がすこし覗いている。小さく膝を抱えて顔を隠したローザは、僕が肩に手を置いても、ゆすっても、返事をしなかった。
「今日はどうしたの」
黒い布まみれのローザがもぞりと動いた。返事のかわりだろう。
「言いたくないこと?」
「そうよ」
小さな声が返ってきた。
「そうか。でも言わなきゃわからないよ」
「どうしてわからないの?」
「僕が君のパパやママじゃないから、かな」
きっと話したいことがあってここまで来たんだと思う。でなきゃわざわざここまで来ない。あ、電話っていう手もあるけど。でもローザは僕の番号を知らなかったはず。
「パパやママでも、わからないことはたくさんあるわ」
小さな声だった。
「パパに会えたの?」
ローザは首を横にふった。
「パパじゃないのに、パパだって言う人」
「え? それってどういうこと?」
ローザは黙っている。ここを動くつもりはないらしい。部屋に入れるべきなんだろうけど、まだ僕には少し抵抗があった。こんな調子で、ずるずるとローザが僕の生活の中に入ってきてしまったらどうしよう、と思う。多分どうにもできないし、そうなったらきっと、僕は何もしない。それもわかっている。何が嫌かって、いずれ別れるときが来るのが嫌なんだ。彼女の父親が帰ってくれば、退屈しのぎの話し相手はいらなくなる。
僕たちが玄関先でじっとしていると、隣のドアが開いた。ドアの隙間から顔を覗かせたのはアンナさんだった。
「揉め事?」
「そういうわけじゃ」