ローザリアン
車はロータリーをすべるように走り、僕たちの前でぴたりと止まった。ブレーキ音が少しも鳴らない。いかにも女性らしい……いや、デイジーらしい運転の仕方だった。デイジーは女性扱いをするととても怒る。多分、仕事で辛い思いを沢山してきたのだろう。
ドアが開いて、紫のパンプスが地面に降り立った。ああ、まるで死神が大地に降り立ったように見える。
「サイモン」
夜の闇にも鮮やかなデイジーの赤い唇が開いた。僕にはそれがスローモーションで再生されたように見えた。おそろしい。
「自転車の盗難は今年に入って二回目よ。ショッピングを楽しむお金もないのにどうしてそうウロウロするのかしらね」
デイジーの声は僕の背筋をビシッとたたきつけて真っ直ぐにする効果がある。
「た、助かるよデイジー」
「少しぐらい家に引きこもって台詞の一つでも書けばいいのに」
「それができれば苦労しないんだけど」
「あなたの苦労なんて知れてるわよ」
そこまで話して、デイジーはローザがいることにようやく気づいた。
「どういうこと?」
「話してなくてごめん、言う前に電話を切っちゃったから」
デイジーが僕の目をきつくにらんだ。変な汗が出る。とても怖い。今までで一番怖い。彼女の体からは、今にもライオンが飛び出してきて僕をかみ殺すんじゃないかってぐらいのオーラがあふれかえっていた。そんなに怒らなくたっていいじゃないか!
「さっき駅のカフェで知り合ったんだ。名前はローザ。お父さんが帰ってくるのを待っていたらしいんだけどカフェは閉まっちゃうし夜は遅いし、送ろうと思ったら自転車がなくなっちゃうしで、どうしようもなくなっちゃって、いや、君を足にしようとしたわけじゃないんだけど、歩いて送るにも体が冷えちゃうんじゃないかって」
「いいわ、何でも……いつものことだから」
ため息。
あれこれ言い訳をしているうちに、デイジーの怒りはしぼんだようだった。
ほっとした僕はローザにデイジーを紹介する。ローザはワンピースのはしを軽く持って挨拶をした。
「さあローザ、車に乗って。サイモン、あなたもよ。どうせ歩いて帰るんでしょう。それ以上うろついたって、ウイスキーなんか飲めないんだから」
「お酒はあまり好きじゃないな」
「お子様ね」
「でも健康的よ」
突然会話に入ってきたローザに、デイジーは驚いたようだ。
ローザは楽しそうに笑っている。
「私、車に乗るのは久しぶり! とってもステキな車だわ!」
誰だって褒められて悪い気はしない。デイジーもすっかり機嫌が良くなって、ローザと談笑し始める。やっぱり女性はこういうときに輝くものだなあなんて考えながら、僕はシートに深く身を沈めた。少しばかり高級なシートの感触が僕を包み込む。車内の暖かさに心が安らいだ。
幸せって、案外簡単に手に入るものだ。
◇ 何も起きない火曜日
次の日の昼。僕は突き刺すような朝日を全身に浴びて目を覚ました。最近、不規則な生活が続いている。起き上がって窓を開けた。
僕の部屋にはカーテンがない。カーテンを買うお金がない。貯金は、もしものために残しているから、こういうところでは使いたくないし。部屋も部屋で、窓を開けて十分しないうちに空気が全て入れ替わってしまうぐらいに狭い。居心地よく感じるのは長年住んでいて錯覚しているだけだろう。冷蔵庫を開いて中身を確かめる。いつもどおり、なにもない。少しでも中にものがあった頃を忘れたくないのか、体が勝手に動いてしまうのだ。電源プラグは数ヶ月前から抜きっぱなしだ。
はげかけた壁紙、小さな亀裂がいくつも入った床。ボロボロのアパートだ。僕がここに住み始めて、もう五年はたっている。
小さい頃は田舎に住んでいたけれど都会に憧れて引っ越してきた。仕事のことは何も考えていなくて、バイトをして食べていければそれでいいと思っていた。心のどこかで小説家になりたいって気持ちがくすぶっていて、結局出版社に原稿を持ち込んだ。そのときの原稿は今も大事に机の引き出しに収納してある。つまり使い物にはならなかったってことなんだけど、捨てるに捨てられなくて、僕の十字架代わりみたいなものだった。
そういえばここ数年、ミサには言っていない。元々神とか天使の類は信じていないからつい忘れてしまう。信じていないというか、興味がないというか、そんなことをしている暇があるなら働いてお金を貯めておきたい。
本当は田舎の両親の元へ帰って農作業を手伝えばいいのだけど、自分のことだけを考えて飛び出してきたものだから少し戻りづらい。お金がなくなって、死にそうになったら戻ってもいい、と考えている。わがままなのは自分でもわかっているつもりだ。
と、部屋のドアがノックされた。
今月の家賃は既に払っているし、コラムの原稿もこの間出したばかりだ。僕は新聞も取っていない。
「うわっ!」
ドアを開けると、そこには昨日の少女がいた。ローズマリー、だったっけ。そうだ、ローズマリー。僕はローザって呼んでいた。
「サイモン、不用心すぎるわ。ドアにはチェーンをかけなきゃ」
「チェーンがないんだ……いや、それよりも待って、どうしてここが?」
昨日の夜、デイジーは先にローザを送って、それから僕を送った。僕の家を知っているはずがないのに、ローザが目の前にいる。
「一体どうやって?」
「デイジーがセントラルビルで働いてるって言ってたから、デイジーに会いにいったの。そこでサイモンの住所をきいて、ここまで来たのよ。デイジーって有名なのね、受付で聞いたらすぐにわかってくれたわ。デイジーはここまで送ってあげるって言ってくれたけど、お仕事が忙しそうだったからいいって言ったの」
「え、じゃ、どうやって」
「歩いて」
「歩いて!」
セントラルビルからこのアパートまでそこそこの距離がある。大人の僕で三十分はかかるんだから、ローザだと一時間はかかるんじゃないだろうか。しかも、見ず知らずの家なんて探すのは大変だ。
「とにかく中に入って。休まなきゃ」
「私、そんなに病弱に見えるかしら?」
ローザを部屋に招いて、僕はドアを閉める。人を家に入れるなんてこっちに来てから一度もしたことがない。ティーカップもなきゃお菓子もない、そもそもコップがひとつしかなかった。座る場所も床とベッド。椅子やソファはない。
とりあえずコップに水を入れてローザに渡した。
「ごめんね、水しかなくて」
「私お水好きよ」
そう言ったローザに僕は苦笑した。ローザも笑っている。
「お水を飲むたびに、こう言わなきゃいけなくなっちゃうのかしら」
「今度はジュースを出せるようにがんばるよ……」
「何をがんばるの?」
「仕事だよ」
「サイモンもお仕事をしているのね」
床に座ろうとしたローザに僕は慌てた。
「ま、待って!」
「なあに?」
「ベッドに座って。床は冷えるよ」
「もうサイモンったら、私赤ちゃんじゃないのよ」
「だめ、絶対ダメ!」
ローザは昨日と同じように黒一色でまとめた服装をしていた。ミニのワンピース、タイツ、手袋、帽子、靴。どれも新しく、清潔な空気がローザを包んでいる。そんな人間が、僕の、下着も放りっぱなしの床に座るなんて! ベッドのほうが少しはましに思えた。