ローザリアン
表改札を抜けて外に出ると強い風が吹いていた。近くにビルが建てられたせいで駅前はいつもこうだ。
「あれ?」
出てすぐのポスト脇に停めていた自転車がなくなっていた。近くに移動された様子もない。
「自転車だったの?」
「ああ、うん。でもなくなってる」
「とられちゃったのかしら」
「まいったな。ローザはここまで歩いてきたの?」
「そうよ」
「うーん」
誰かに送ってもらってここに来たなら、その人にと思っていた僕の考えは甘かったようだ。ポケットの中にいくらか入っているのを確認して、電話ボックスへ向かう。
少女とは手をつないだままだった。離したがるようなそぶりも見せないし、タイミングがつかめない。未だ冷たい少女の手を僕は少しだけかわいらしく思った。こうして少女を家に送り届けようとしていること自体、信じられないことだ。今日の僕は僕らしくない。もしかして僕じゃないのかもしれない。
「どこに電話するの?」
「車を持っている人だよ」
押しなれつつある番号を慎重に押した後、僕は神に祈るような気持ちで念じた。どうか彼女の機嫌が悪くありませんように。
「はい」
一回目のコールが鳴り終わらないうちに、彼女が電話に出た。仕事熱心な彼女らしい。そんな彼女の仕事を邪魔するような電話をかけていることに僕は一層恐怖を感じた。彼女は怒っていなくても怖いのだ。
「落ち着いて聞いてくれよデイジー。僕はいつものように原稿を書こうとしていたんだけど、アパートじゃどうも集中できなくて……」
「待って、言わなくてもわかるから。車ね。今どこにいるの」
「どうしてわかったの」
「あなたが電話するときっていつもそのことじゃない。他はこちらからかけてばかり! せっかく雇ってあげてるって言うのに、洒落の聞いた話一つ書けないわけ? あなたの話が売れたところで利益は大したものじゃないけど、仕事の量を増やしてほしいならもう少し態度を改めたほうがいいんじゃないかしら? 今月はいくら儲けたの? 言ってみなさい。そして明日の朝、目が覚めたら公園にでも行って子供に聞いてみるといいわ。君はお小遣いをいくら貰っているのってね。あなたが子供より役立たないことがよくわかるわよ!」
「待って、わかった、よくわかった。君の言いたいことはとにかくわかった。お互いにこの辺で歩み寄ろうよ」
僕の発言があまりにも情けないと思ったのか、デイジーが電話越しにため息をついた。
「もういいわ。今どこ?」
「いつもの駅の正面入り口なんだけど」
「すぐ行くからそこで待ってて。絶対に動かないで!」
電話はそこで切れてしまった。それほど怒っているわけではなさそうだったけど、ぶつっという切れた音が、彼女の機嫌の悪さを表している。憂鬱になってきた僕は受話器を下ろした。
「だれ?」
「僕の仕事仲間。あ、いや、違うな、叱る人と叱られる人かな」
「サイモンが叱る人?」
「残念、僕は叱られる人」
「だと思った」
クスクスと笑うローザに僕はがっくりとした。こんな小さい女の子にさえそんな風に言われるなんて、男として、いや、大人として情けない。
「叱る人ってどんな人?」
ローザが僕を見上げて聞いた。顔のガーゼが痛々しい。僕の視線に気づいてか、少女はガーゼが見えなくなるように正面を向いた。嫌な思いをさせただろうか。僕は取り繕うようにデイジーのことを話した。
「デイジーは僕の働いている会社の、なんていうか、上司なんだ。女の人だけど、怒るとすごく怖い。怒らなくても怖いけど、僕にはいつも怒っている気がするよ。まぁ僕が悪いんだけどね」
会社の上司というのは、半分本当で、半分嘘だった。僕は売れない小説家で、デイジーは僕の担当者だった。デイジーは僕だけじゃなく他にもたくさんの小説家達を担当しているみたいだけど、そのリストの中でも僕が一番働いていないらしい。リストの中には売れている作家も沢山いる。有名作家よりも「書かない」作家なんて、とんでもない話だ。しかもそれが新人。つまり僕のことだけど。
書かなきゃいけないってことは分かっているんだけれど、これが不思議とかけないんだ。才能を見込まれて、というか、少なくとも僕はそうだと認識しているだけの話だけど、それで雇われたのに今までたったの一度も僕は小説と呼べるものを書いていない。思考を垂れ流しただけの散文が、雑用紙に一枚、二枚程度吐き出されていくだけだ。
そんな僕がどうやって生活しているのかというと、コラムを書いて食いつないでいる。最初はバイトをしていたんだけれど、働いていた店がつぶれて生活ができなくなった。そこで、雑誌のコラムなどを書くようになった。コラムの仕事をくれたのも、デイジーだった。
雑誌といっても小汚い店の隅っこに放り投げられているような不人気の雑誌だし、その中のコラム、量でいうとページの四分の一あるかないかってところ……デイジーが念を押しつつ勧めた仕事に僕は飛びついた。飛びついたけど、苦しかった。とにかく原稿料が少ない。執筆の量に関してはあまりの書けなさから、正直なところ助かっている面もある。あるけれど、以前の収入の半分をやっと超えるぐらいだった。僕の貯金はじわじわと磨り減っている。けど、貰えないよりはずっといい。忙しいのに時間を割いて仕事を持ってきてくれるデイジーには本当に助けてもらっている。たまにお金をかりたりもするから、デイジーにはとてもじゃないけど逆らえない。逆らうつもりもない。いや、でも僕はまともな原稿を書いていないから、これは彼女に逆らっていることになるのだろうか。
彼女は元々、地元にいた頃からの友人だった。僕と同じハイスクールに通っていて、僕と同じクラスで、なぜかいつも席が近かった。彼女は大学を出てすぐにこっちへ移り、僕はしばらくあとにやってきた。まるで彼女を追ってきたみたいだけど、それだけは本当に違う。断言する。何しろ彼女は僕がこの町にいることを、さっきまでいたカフェで知ったのだから。
あのカフェで偶然に僕を見かけたデイジーが話しかけてきて、僕の現状に絶句し、仕事をくれるようになってから数ヶ月たつ。少しだけ前のことなのに、何年も昔のように感じられた。書く仕事を与えてくれたデイジーには感謝しなければならない。僕がハイスクールの頃から字を連ねることに夢中だったことを、彼女は知っていたんだ。彼女の期待に応えるためにも、一刻も早く原稿を上げなければ。
さっきまで駅のカフェにいたのも、進まない原稿を無理やりにでも書こうとしていたからだった。
結果は言うまでもない。
「サイモン?」
「あ、ごめん」
「いいの。サイモンも大変なのね」
お互いに正面を向いたままの会話は奇妙だった。ビル風が僕たち二人を強くあおって、目の前の大通りを駆け抜けていく。ローザの長い髪も風にふかれ、僕の腕に当たった。寄り添うような触れ心地に僕はローザの幼さを実感する。子供の髪は柔らかい。
交差点の向こうから車が見えた。
「車が来たよ、ローザ」
「あれが叱る人ね」
「デイジーっていうんだ。くれぐれも叱る人なんていわないでね。僕がそう言っていたなんてこと、デイジーはすぐにわかってしまうから」
「二人だけの秘密ね」