ローザリアン
しばらく外を歩いていたときに、酔いつぶれた男が道に転がっているのを見つけた。男の周囲にはぼろきれやら何やらが集められていた。すぐにわかった、そこで生活をしているのだと。魔が差したと言えば君は納得するか? 私は気がつくと男を担いでアパートに戻っていたのだ。そして男を殺した。君が今日見た、あの二人と同じように。そして死にたての人肉をローザに与えた」
僕はただ、じっとコリンさんの話を聞いていた。何もいえなかった。話の内容に頭が動かなかったのが半分、もう半分は頭を必死に働かせていた。これはきっと嘘なんだと、一生懸命に言葉のほころびを探していた。
けれど僕はなんとなく、肌で感じ取っている。この話は多分、嘘じゃない。
完全に日が沈んで暗くなった窓の外は、まるで深海にいるように真っ暗だった。明るい室内に僕はコリンさんと二人きりで、時計の針だけが音を立てている。無言の空間がコリンさんに告白を促している。僕はそれをじっと聞いている。
「ローザはその肉を全て食べた。翌日に見違えるほど元気な姿を見せたとき、私は全身の力が抜けるようだった。これでローザは健康な肉体を保つことができるのだと思うと、嬉しくてたまらなかったよ。あの日のローザの笑顔は今でも覚えている。私の娘は愛らしい顔で私に言うのだ、ありがとう、とね。私はローザの体が弱るたびに人を殺しローザに与えた。ローザは私が与えるままに食べた。もう一度尋ねるが、君はそのようなローザをあの二人に帰すというのかね?」
自嘲、哀しみ、慈しみ、様々なものが混ざり合って、コリンさんの顔に刻まれていた。
年老いた体にまとわりつく重さが目に見えるようだった。
「でもそれは」
口の中が乾いている。
「あなたが、そういう風に、してしまったからじゃないですか」
声も震えていた。
「確かにローザは、あなたなしには生きられないかもしれない。あなたが父親としてローザを愛していることは僕にだって分かります。けれどその愛は、幸せは、ローザにとって虚偽のものです! ローザが本当に大切なものは何なのか、それはローザ自身が決めるべきだ!」
「判断する記憶もなしにか?」
コリンさんはただ笑っている。
「ローザは確実に私を選ぶ。過去など取るに足りんことなのだよ。今を選ばせるだけの全てを、私はローザに与えている」
「傲慢だ!」
「そうだ。そして君も私と同じだ」
僕の言葉が喉に詰まった。
僕が傲慢? 一体どこが?
僕はこんなにローザのことを考えているじゃないか!
彼女のために、ありったけのことをしてやりたいとさえ感じているのに!
そこまで考えて僕は気付いた。
僕も、コリンさんと同じだった。
「だがね、ローザに自由を与えるのは私一人で十分なのだよ」
コリンさんがコートのポケットに手を入れるのを、僕は逃げずに見ていた。ゆっくりとのぞく銃身に緊張する。コリンさんは最初からこのつもりだったんだ。だから僕に全てを話した。
「私はローザが愛しい。この歳になってようやくできた娘をみすみす手放すなどできはしないのだ。妻が生きていればどれほど喜んだと思うかね? ローザは私達の娘だ。どこへもやらない、誰からも奪わせない。ローザは私が守る」
銃口が僕を捕らえる。
「答えなさい。君は私からローザを奪うつもりかね」
もうすぐ僕の命が終わることを、僕は他人事のように感じていた。二人だけの部屋で僕はコリンさんに殺される。僕はどうなるんだろう? 僕の体も、コリンさんが言うように、ローザが食べてしまうのだろうか?
「僕は……」
ローザを守りたい。ローザが笑顔でいてくれれば、結局のところ、何だっていいんだ。たとえ僕がここで殺されようと。
「やめてパパ!」
飛び込んできた声に僕は動揺した。僕とコリンさんの間に黒い姿が割って入る。フリルのついたスカートがふわりと揺れた。
その時僕は気付いてしまった。ローザから香るのは血のにおいだ。
あの部屋のドアの奥で、君は鞄の中身を食べていたんだね。
「約束したじゃない、サイモンには何もしないって!」
ローザが僕に向き直る。頬についた血は赤く、ローザの白い肌の上で主張していた。
「ごめんなさいサイモン、私、本当にこんなつもりじゃなかった」
ローザの細い腕が僕を抱きしめた。
「パパお願い、サイモンを撃たないで!」
涙ながらに訴えるローザに僕は心をかき乱される。人を食べる化け物だとしても、ローザは可憐で、美しく、僕のことをまっすぐに見ていてくれる。それはローザの本当の姿なんだ。僕はそんなローザが、好きで好きでたまらないんだ。
「ローザ、いいんだよ、僕は」
「よくないわ! サイモンがよくったってだめ! 私はサイモンのお友達よ! お友達が死ぬところなんて私、見たくない!」
大きな目から涙が零れ落ちる。そのひとつひとつさえ、まるで宝石のようだった。
ローザの透明な心は決して濁らない。その清らかさが僕を、そしてコリンさんを惹きつける。
「ローザ」
銃口が下がる。
深く息を吐いたコリンさんは、ローザを見ている。縋るような視線は孤独を映している。
ローザが僕の手を引いた。
「サイモン」
ローザは僕を促して部屋を出ようとする。
「待ってくれ、ローザ」
僕たちの背にコリンさんの声がかかる。
ローザが振り向いた。
「……戻ってきてくれるね?」
その言葉に、ローザは静かに頷くだけだった。
夜の街路を僕たちは歩いていた。お互い、何も喋らなかった。いや、聞きたいことはたくさんあった。けれど尋ねる勇気がなかった。
街は冷え切っていた。月明かりは冬の風を一層鋭くさせ、石畳を歩くふたり分の足音は眠りについた人家の合間に響きわたっている。世界には僕たち二人と、道を照らす街灯しか存在していない。
ふと、ローザが口を開いた。
「パパのこと、嫌いにならないであげて」
夜風にローザの髪が舞っている。僕たちはどこへ向かうでもなく、ただ道を歩いている。
「私、パパのことがとっても好きなの。パパが本当のパパじゃないってこともわかってるわ。でも私にとってパパは一人しかいない。あの人だけが私のパパなの」
「でもローザ、本当にそれでいいの? ローザの本当のお父さんやお母さんは……」
「いなくなっちゃった」
「それは、うん、そうだけど」
歯切れの悪い返事をしてしまう。そうなんだ。ローザの本当の両親はもう、死んでしまっている。
「それに私、もう食べちゃったわ」
「ローザ……」
「知らない人と暮らすのと、パパと暮らすのと、どっちが楽しいと思う?」
ローザは足を止めて僕に向き直った。
「私、全然後悔なんてしていない。だって本当に覚えていないんだもの。私が過去にあの知らない人たちと暮らしていたのは本当かもしれないけれど、今の私はそれを覚えていないんだもの。私が一緒に暮らしていたのは、あの日の夜から、ずっとパパだけよ。だから私、パパと一緒にいるのがいい。パパは私のことをとても大事にしてくれたわ。パパの気持ちに答えたいって思う私の気持ちは、サイモンには偽物に見えるのかしら?」