ローザリアン
その言葉が僕には理解できなかった。人間ではないって、どういうことだ?
「特に君のような人間には、理解できんだろう」
バックミラー越しに、コリンさんが僕を見る。くぼんだ眼窩から覗く視線は、初めて会った喫茶店でのそれと同じだった。僕の体は緊張している。鋭い目が僕を縛る。
「……数ヶ月前に、一人の子供を轢いた」
コリンさんの言葉は続く。
「私はおそろしくなってそのまま逃げた。警察の姿に怯えていたよ。まさか、自分の人生が檻の中で終わるなど今まで考えもしなかったからね。ところが三日たっても彼らは私の元へは来なかった。どうもおかしいと思っていたら、その日の夜に来客があった。独り身で、他人と関わらない私の元にね。一体誰がと思えば、玄関には轢いたはずの子供が立っていた。子供は言った。何も覚えていない、ただあなたの顔と車のナンバーだけは覚えていると。ああ、それから自分の名前も、だな。次に子供はこう言った。あなたしか覚えていないということは、あなたが父親に違いないと」
交差点で車は止まった。信号機が赤く光っている。僕はコリンさんの話に耳をかたむけている。
「それがローザだ」
コリンさんはそれっきり、何も話さなかった。
車が止まった。
「もう動けるだろう。手伝いなさい」
言われて手を動かしてみると、確かに動けるようになっていた。少し痺れが残っている気もするけれど問題ない範囲だ。車から降りて後ろへ回る。コリンさんがトランクを開く。
中には二つのボストンバッグが入っていた。どちらも大きい。あの建物から出るときにこれを積んだのだろうか。だとするとこの中身は、僕の想像するものと同じなのだろうか。
コリンさんが片方だけを持っていったので、僕は残されたもう一つを持ち上げた。
重い。
アパートのエレベーターに乗り込み、四階へ向かう。以前にも来たことは黙っておいた。余計なことをすると死期を早めそうな気がした。というより、さっき逃げてしまえば良かったんだ。僕はどうしてコリンさんに従っているのだろう。考えなくても自分でわかっていたけれど。
軽い音がしてエレベーターのドアが開く。一番端の部屋。四○一号室。覚えている。
コリンさんがドアを開いた。
静かな室内には誰もいない。リビングを抜け、コリンさんは奥の部屋に向かう。
入った部屋の中は、僕たちの立つ側とは反対の壁にドアがあるだけだった。他には何も無い。板張りの床が静かに息を潜めていた。僕はコリンさんにならって鞄を床に置く。
あまりにも簡素な部屋は、人が住むには似つかわしくなかった。あまりにも人の気配がない。ただ単に、荷物置き場にしているだけなのかもしれない。
リビングに戻った僕はすぐにローザの姿を探した。まだ帰っていないようだ。ひとまずは安心だけど、それも時間の問題だろう。
コリンさんがどうしてこんな行動に出たのか僕には分からないままだった。不安感だけが僕の心に広がっていく。
遅かれ早かれ、ローザはこの家に戻ってきてしまう。もしもコリンさんがローザをどうにか、いや、そんなことは信じられないし考えたくもないけれど、とにかくどうにかするつもりなら、僕はそれを止めなければならない。
「ローザを、どうするつもりなんですか」
僕はコリンさんに尋ねた。
「あの鞄の……二人みたいに、するつもりなんですか?」
けれど確信めいたものが僕にはあった。
コリンさんは、ローザにおそらくローザに危害を加えることはない。
「馬鹿なことを言うのはよしなさい」
コリンさんは僕に、苦い顔をしてみせた。
「君が私をどう思っているのか、大体の想像はつく。そしてそこから更に考えていることもね。君の考えは正しいよ。私はローザを殺そうなどとは思っていない」
「やっぱりそうでしたか」
「心外だな。私はそんなに父親らしからぬ風貌かね?」
コリンさんが笑う。
「誰が何と言おうと、私はローザの父親だ。今となっては名実共に」
「え?」
名実共に。
じゃあ、あの二人は本当にローザの両親だったっていうのか? コリンさんはローザの気持ちも考えずに、あの二人を殺したっていうのか?
「今のローザには記憶がない。私を父親と慕っているのだから、あの二人は邪魔なだけだ」
「そんな……」
「身勝手な男なのだよ、私は」
「でも」
小さく微笑むコリンさんに僕は納得がいかなかった。だってそうじゃないか、こんなのは、許されることじゃない。許されていいはずがない!
「他にも方法はあったはずです、ローザのためにしてやれることは、いくらでもあったはずだ! こんなのローザは望んでない!」
「では君は、あのようなローザを親元へ帰すというのかね? 記憶もなく、人肉を食す異形の娘を、あのように型にはまった人間へ手渡すというのかね」
飛び込んできた言葉に僕は戸惑った。人肉を食べる? 誰が? ローザが?
「言っただろう。君のような人間には理解できんと」
コリンさんが僕をじっと見る。その目には濁った感情が渦巻いている。
◇ 真実と朝と土曜日
「あの日、ローザが私の元へ来たあの日から、ローザは日を重ねるごとに衰弱していった。医者に診せるわけにもいかず、私はとにかくローザを休ませることしかできなかった。作った食事を食べこそするものの体力は回復せず、どれだけ眠ろうとも一層臥せるばかりでね。何か大きな負担が体を苦しめているのかとも考えた。しかしそれが回復への足がかりになるわけでもなかった……私には知識もなく、経験もなかった。私はただ、ローザを見守ることしかできなかった。私とローザはこのアパートで、言葉を交わし、ただ二人きりで呼吸を繰り返していたのだ。
ところがある日、私が食事の支度をしているとローザが起き上がってきた。私のところへ真っ直ぐやってきて言うのだよ。それを私にちょうだい、とね。それというのは生肉だった。その日はシチューを作ろうと思っていたのだが、ローザは私の返事も待たずにその肉を食べてしまった。そして、もっと同じものが食べたいと言い出した。ローザが何かを要求したのはそれが初めてだったよ。とにかく私はできるだけのことをしてやろうと思った。毎日仕事の帰りに生肉を買い、ローザに食べさせた。すると不思議なことにローザの体は回復していったのだ。私は安堵した。これでもう大丈夫だと思っていたのだ。ところが幾日かするとローザは再び寝込んでしまった。私はあらゆる生物の肉をローザに与えた。ローザが好んで食べるのは鮮度が高く、体の大きい動物の肉だった。
衰弱と回復を繰り返すうち、それらの肉だけでは追いつかなくなってきた。私はどうすることもできず、再び弱るローザを眺めていた。金銭面での問題もあった。もっと金がなければ肉は買えない。どんな気分かわかるかね? 眼前で、自分の娘が再び死に近づいていくのをただ眺めている。自分の無力さを突きつけられるのだ。私は頭がおかしくなりそうだった。耐えられなかった。ローザを見ていることができず、その夜、私は部屋を出た。