ローザリアン
「だってサイモンとパパと三人で夕食なんて、夢みたい!」
父親が帰ってきてからのローザは、それ以前のローザより少しだけ幼くなったような気がした。頼れる人間が側にいるんだってことがよくわかる。ローザが僕の元へやってきた数日前のあの夜、僕はローザを守ることができていたんだろうか。実の親と自分を比べること自体おかしなことだけど、考えずにはいられなかった。
そうだ。
気になっている。
ずっと。
ローザにとって、僕がどんな存在なのか。
「ねぇ」
彼女の小さな手をとった。やっぱり冷たいその手を、僕は強く握った。
「ローザは僕のこと、どう思ってるの」
まるい瞳が夕日を吸い取って輝いている。それが僕にはまるで宝石のように見えた。
彼女を見ているだけで頭がおかしくなる。こんなのは変だ。僕は変になっている。堪えなきゃいけないのに、僕は自分の思いを吐いてしまいたい。
「サイモンは私のことが好きなの?」
彼女の柔らかそうな唇から目が離せない。
しっとりと水気を含んだそれが、ゆっくりと話しはじめる。
「私もサイモンのことが好きよ」
ちがう。
ローザ、それは違うよ。
君の好きは……
「サイモンはとっても大切なお友達だもの」
おともだち。
「サイモンは私のこと好き?」
「うん。好きだよ」
とても好きだ。
大好きだよ。
出会ってまだ数日だけど、何年も一緒にいたように感じるんだ。
僕はねローザ。
君を、愛しているんだよ。
「……大切な、お友達だからね」
ローザの笑顔が眩しい。
「よかった!」
そのまぶしい光で、僕を溶かしてほしかった。
こんな汚い僕をローザは知らない。望んでいない。
ローザに知られるよりも先に、僕の感情を根こそぎ摘み取ってほしかった。誰かに殴られるのでもいい。
とにかく目を覚ましたかった。
愛らしいローザは僕を照らしてくれるけれど、同じように濃い影を作ってしまう。
ローザに触れたい。
もっと触れていたい。
ローザを愛したい。
苦しいよ、ローザ。
「サイモン」
ふいに、ローザの表情が固くなった。コートの袖をそっと握られ、僕はハッとする。現実に戻ってきたような気がした。
「あそこ、人がいるわ」
僕に隠れるようにして指差した先には、公園の道が続いている。両サイドに植わった木々が風にざわめいて、木の葉を散らせていた。その合間に、人がいる。
それは一組の男女だった。せわしなく辺りを見回す姿からすると、何かを探しているらしい。二人はどことなく、夫婦のような印象を受ける。
「あっ!」
ローザが声を上げた。
「あの人たちよ、サイモン!」
「え?」
「私の、パパとママだって言う人よ!」
ローザの声に向こうも気付いた。結構大きな声だったから、気付かれたんだ。
「どうしよう、私……どうしたらいいの、サイモン」
言葉がそのまま僕の心に反響した。
僕だってわからない。
どうしたらいい。僕はどうしたらいい?
話し合ってお互いを理解すべきだと思った。
誤解を誤解のまま残しておくと後々面倒なことになるだろうし、それがローザのためにも一番いいだろう。理解しあって、及第点を探す。僕は今までずっとそうしてきた。それに社会だって、そうして成り立っているじゃないか。けれど、
「こわい、サイモン」
ローザは震えていた。
「行こう!」
僕はその手を握って、駆け出した。
「行くってどこへ行くの、サイモン!」
「逃げるんだよ!」
ローザは僕の手にひかれて走る。けれど、今にも転びそうだ。
コンパスが違いすぎる。
僕はローザを抱きかかえた。
公園を出てすぐの小道を曲がる。めちゃくちゃに走り回りたかったけれど分かれ道がなかった。こんな時に!
とにかく走らなきゃいけない。
脇の植木鉢に足をひっかけた。
ローザを抱えなおす。
走る。
走る。
走る。
「サイモン、あそこ!」
ローザが指差す先に、建設中の建物があった。
「あそこへ逃げて!」
考える暇はない。
僕はそこへ駆け込んだ。
建設中と思っていた建物は、途中で工事を中断されたものらしい。中途半端に剥がれかけた灰色の防音シートの外側から、夕日が差している。埃と資材にまみれ、まるで廃屋のようだった。
「ここなら簡単にまけるでしょ?」
息の乱れた僕の背を撫でながら、ローザがにっこりと笑う。またしても情けない。たったこれだけのことでへばるなんて……体力がなさすぎだ。
「さっきの人たち、ここへ来るかしら」
ローザは心配げに下を見下ろした。僕たちがいるのは二階だ。フロアは広く、階段もいくつか設けられていた。上に続く道はまだある。けれどこのまま上へ上っていけば、いずれ追いかけてきた二人に再会することになるだろう。それは避けたほうがよさそうだった。とにかく、二人に会わないようにして逃げなければいけない。
「ローザ、ここから君の家まで、一人で帰れる?」
「帰れるけど……どうしたのサイモン、私いやよ」
僕の言葉に何かを感じ取ったらしく、ローザは不安げな顔を見せた。
「ここからは一人で帰るんだ。僕があの二人を足止めしておくから、その間にローザはこっそりここを出ればいい」
「ダメよサイモン! サイモンが危ないわ」
「別に殺されるわけじゃないだろ?」
「でも……」
渋るローザの両肩にそっと手を乗せた。
細くて小さい肩に僕の両手は敏感に反応した。背中の肌がぞわぞわとして、その感覚が僕の体を這い回った。僕の指は自然に緊張して力が入っている。とんでもないことをしてしまいそうだった。頭の中で激しい音が鳴っている。何かのサイレンだ。いけない。僕は何もしてはいけない。僕がローザに触れる、それだけでもどんなに彼女を汚しているか。目には見えない何かが僕を侵し、僕の手を通してローザへ伝播していく。だめだ! それはいけない!
僕の腕が動く。
いけない。
いけない……。
僕は膝をつき、
強く、
ローザを抱きしめた。
「怖がらないで」
どっちのことを言っているんだ? 僕は自分に言い聞かせるために、そう言っているんじゃないか? あるいは欲望を悟らせないために、言い訳をするために、こんな言葉を吐いているんじゃないか?
「僕が君を守るよ。守らせてほしいんだ」
「サイモン」
ローザの声が震えている。僕の両腕の中に、小さくて温かい体がいる。僕は抱きしめたローザの肩に顔を埋める。あの時と同じ、甘い香りが僕を包む。
細い腕が、僕の背を抱いた。
たまらなくなって、僕は一層力強くローザを抱きしめる。ローザの頬が僕の首に擦り寄った。目の前に白く柔らかな首筋がある。包帯の下に隠れていた素肌が、僅かな熱を放ちながら目の前に横たわっていた。
欲望が僕の体を渦巻いた。
いけないことだ。
これはいけないことだ。
わかっているのに、止められない。
僕はその首筋にそっと口付けた。
「サイモン」
小さな声。
両手を押してローザから離れた。
「ごめん……ごめん、ローザ。違うんだ。こんなのじゃない。僕はこんなことをするために君を」
「わかってるわ、サイモン」