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トロイメライ

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 その日、父は珍しく仕事で出かけていた。知人の紹介で、夏休みの間だけ小中学生向けの絵画教室の講師を担当することになったため、それについての話し合いをしに行ったらしい。土曜日だったが、母親も休日出勤で病院に行っていたので、学校が午前中で終わったあと、彗太は家で一人留守番をしていた。暇なので、友達の家に遊びに行こうかとも思ったが、今日学校で早めに夏休みの宿題をもらったので、早速それにとりかかることにした。
 二階の自分の部屋よりも涼しい一階のダイニングで、算数の計算ドリルに向かい合っていると、突然、裏庭に面したベランダの窓を叩く音がした。ぎょっとして目をやると、そこには千鶴が立っていた。
 「どうした?」
 「入れて」
 千鶴が少し焦った様子だったので、彗太は何も訊かずに彼女をベランダから家の中に入れてやった。
 「何かあったのか?」彗太はもう一度尋ねた。彼女は少しの間黙っていた。言うべきか言わざるべきか、考えているようだった。また、あの怯えた目をしている。
 「おばさんが来たの」千鶴はぼそりと答えた。「おばさん、私のことあんまり好きじゃないみたい。ママと仲が良くないから。だから、私、いないほうがいいかなって・・・」
 苦々しげに言う千鶴に、彗太は掛ける言葉が思いつかなかった。彼女が「おばさん」と呼ぶのは、たまに隣にやって来る鶴ばあの娘のことだろう。隣町から足が悪い鶴ばあの世話をしにきているのだと、以前文野が言っていた。
 「だから、おばさんが帰るまでここにいてもいい?」例の困った顔でそう言われて断れるはずもなく、彗太はただ短く、別にいいけど、と答えた。内心では、千鶴が自分を頼りにしてくれているような気がして、少しばかり嬉しかった。
 「ありがとう。摂津くんのお父さんとお母さんは?」
 「今日は二人とも仕事。だから、気遣わなくていいぞ。何か飲むか?」
 「ううん、いい。・・・ごめん、勉強してたんだね」千鶴はダイニングテーブルの上の計算ドリルに目を落とした。「私のことはかまわないでいいよ。そのへんに座ってるから」
 そう言うと彼女は、部屋の隅の、窓から隣の家が見える場所に腰を下ろした。彗太は対応に困ってしまった。少し心を開いたと思ったら、また距離を置こうとする。正直、扱いづらくて仕方がない。しかしなぜか、彗太は彼女を放っておけなかった。
 「なあお前、このあたりとかもう見てまわったか?」
 「ううん、全然・・・おばあちゃん、足が良くないから、あんまり一緒に外に出かけられないし」
 「なんだったら、俺が案内してやってもいいぞ」
 「え?」
 自分でもわざとらしいと思いつつ、彗太は続けた。「一応観光地だからな、見るとこはいっぱいあるんだ。グラバー園とか、中華街とか、あとは、えーと・・・」改めて考えてみると、地元の名所などと呼ばれているものは、意外に知らないものである。四年生の時に学校の社会科学習でいろいろと習ったが、もうすっかり忘れてしまった。
 「でも、宿題はいいの?」千鶴は彗太の目を窺った。
 「あ、別にお前のためじゃないんだぞ、夏休みの自由研究に使うんだからな」
 「・・・ほんと?」
 「ばか、嘘つくわけないだろ。テーマは・・・あー、『地元の産業』」
 「…そう。じゃあ、私も手伝う」彼女の顔に、ようやく微かな笑みが浮かんだ。

 二人はとりあえず、家から歩いて行ける範囲にあるグラバー園に向かった。公園内に続く坂道は、休日ということもあって、多くの観光客で賑わっていた。途中のみやげ物屋でカステラをつまみ食いして、彗太と千鶴はさらに上を目指した。
 「ここって何があるの?」坂をのぼりながら千鶴が尋ねた。
 「えーと、昔の家」
 「それだけ?」
 「あと蘇鉄がある」そうとしか答えようがなかった。正直、彗太自身もあまり来たことがないのだ。ふうん、と千鶴は答えたが、興味がないわけではなさそうだった。
 入場ゲートをくぐると、今度はエスカレーターがあった。むせ返るような暑さの中、訪問客らは屋根のついたエスカレーターの下で休憩がてら涼をとっている。まだ夏休み前なので子どもの数はまばらで、かわりに年配の夫婦や若いカップルの姿が目立った。二人もその中に混じってエスカレーターに乗った。
 「わあ、きれい」エスカレーターから見えた景色に、千鶴が歓声をあげた。「あれ、何?」
 「どれだ?」
 「あの青い屋根の建物」
 「ああ、あれは学校」
 「じゃあ、あっちの赤い屋根のは?」
 「あれも学校」
 また?と千鶴は目を細めて笑った。
 エスカレーターを降りたあと、少し傾斜の緩くなった坂をさらに上にのぼった。七月半ばの、じりじりと焼け付くような強い日差しを受けて、額からは大粒の汗が吹き出した。彗太はそれを手で拭って、後ろを歩く千鶴を見やった。
 「おーい、大丈夫か」千鶴は、彗太より十歩ほど遅れながら彼について来ていた。さっきまで比較的元気だったのが、今は笑顔もなく、少し足元がふらついている。見かねた彗太は、訪問客の流れに逆らって、早足で今来た道を戻った。
 「お前、体力ないなあ」
 「だって・・・」近づいて見ると、白い頬が蒸気して真っ赤に染まっている。その途端、サンダルを履いた足が絡まったのか、千鶴の体が前によろけた。彗太はそれを支えようと手を伸ばしたが、たまたま横を歩いていた中年夫婦の方が少し早かった。
 「大丈夫かいな、お嬢ちゃん。ほら、ちゃんと妹と一緒におったらなあかんで、お兄ちゃん」
 「え?あ、はい」
 「すいません、ありがとうございます」
 一瞬、自分に言われたのだとはわからなかった。お兄ちゃん、などと呼ばれたことは今まで一度もなかったから、彗太は戸惑ってしまった。
 「俺ら、兄妹だと思われたのかな」
 「似てないのにね」千鶴は黒目がちなその目で、隣を歩く彗太の顔をじっと見つめた。
 「なんだよ、あんまじろじろ見んな」彗太はなんとなく恥ずかしくなって、ぷいと顔を背けた。千鶴は一言、うん、とだけ呟いた。
 園内の一番高いところにある旧三菱第二ドックハウスを過ぎると、そこから順路は下り坂になった。先を急ぐわけでもなかったので、二人は木陰にあるベンチで一休みすることにした。頭上では蝉が必死になって鳴いている。彗太は隣に座る千鶴を横目でちらりと見た。彼女はどこか遠い目をして、港の対岸のほうを無言で見つめていた。先程から会話がほとんどない。楽しくないのだろうか、と彗太は少し不安になった。
 「なあ」沈黙に耐え切れなくなった彗太は自分から口を開いた。「お前、兄弟とかいるのか?」
 「いないよ、一人っ子」千鶴は短く答える。
 「ふ、ふーん、俺もだ」
 「知ってる、おじさんから聞いた」
 「そ、そう・・・あっ、喉渇いただろ?ジュースかなんか飲むか?あっちに自販機あるから買ってきてやる」
 「いい、いらない」
 また会話が途絶えた。はあ、と千鶴が小さくため息をついた。
 「…楽しくないんだったら、楽しくないって言えよ」彗太は立ち上がり、思わずそう口についた。
 「え?」
作品名:トロイメライ 作家名:zanpang