トロイメライ
実家に電話するのは久しぶりだった。ニュースの天気予報を見て、長崎市に大雨注意報が発令されていたので心配になったのと、母親に少し訊きたいことがあったので、彗太は携帯に「家」と登録されている番号に電話を掛けた。
「もしもし、摂津ですが」
「あ、門馬か?久しぶり」電話に出たのは弟の門馬だった。
「なんだ、彗太かよ。何か用?」
「何か用って、お前なぁ・・・」今年小学校の二年生になった弟は、最近生意気にも、自分のことを呼び捨てで呼ぶようになった。実家に帰るたびに悪くなる弟の言葉遣いに彗太は閉口していたが、周りから「話し方が兄弟そっくり」と言われているので、ろくに注意もできない。
「まぁ、それはともかく・・・お母さんいるか?」
「母さんなら、さっき帰ってきたところ。かわるの?」
「うん、頼む」
わかった、と門馬は答えた。保留ボタンを押さずに受話器を持ったまま走ったのか、木張りの床が軋む音と、ママ、と呼ぶ声が聞こえた。
「もしもし、親不孝な彗太くん?」すぐに母が電話に出た。「急にどうしたの?先月なんか電話もメールもよこさなかったのに」
「・・・悪かったって」彗太は苦笑した。「とりあえず、元気か?そっち、大雨注意報が出てるって聞いたんだけど」
ああ、と彼女は言った。
「結構降ってるけど、家は大丈夫よ。門馬は学校、午前中で帰されたみたいだけど。そっちはどう?」
「ん、こっちもずっと雨。だからここのところ、洗濯物ずっと部屋干しで・・・」
「まー女っ気のないこと。洗濯物取り込んでおいてくれる彼女とかいないわけ?お母さん、休みのたびに彗太が家に誰か連れてこないか、いつも楽しみにしてるんだけどな」
「またその話かよ!だから、うちの寮には野郎しかいないんだって!」正確に言うと、同い年の女性が一人いることはいるのだが、彼女はあえて換算しないことにしている。電話の向こうで、「兄ちゃん彼女できたの?」という門馬の声が聞こえた。
「あはは、ないない!・・・まぁ、とにかく元気そうでよかった」
からかわれているな、と彗太は思った。
「ああ、そうそう。まだ先だけど、今年の夏休みはちゃんと帰ってくるのよね?」母が尋ねた。
「うん、たぶん。盆休みには絶対帰るよ。そう、それでちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「何?」
「昔、隣に住んでたばあちゃんのことなんだけどさ」
「ああ、鶴見さん」
鶴ばあは、彗太が高校生の頃に亡くなった。家は彼女の死後もしばらくそのままになっていたが、彗太が地元で浪人生をしている間に取り壊されて、今は駐車場になっている。
「お隣の家の取り壊し、結局おばあちゃんの娘さんが決めたのよね。税金のこともあるから、土地を売って駐車場にしてしまったほうがよかったんでしょうけど・・・。でも、なんかもったいないわよね。古いっていっても、自分の育った家でしょうに」鶴ばあの話題が出ると、文野はいつもこの話をする。自分たちが今の古い家を気に入って越してきたというのもあるのだろうが、そもそも彼女は鶴ばあの娘一家のことがあまり好きではないらしい。
「それはまあ、おいといて」彗太は母の話を切った。彼女がこのことを喋りはじめると長いのだ。「母さんさ、鶴ばあの孫のこと覚えてる?女の子で、俺が小六の時だから十年前ぐらいか、一度夏休み前にそっちに遊びに来てただろ。よく来てた子達のほうじゃなくてさ」
「おばあちゃんの孫?」文野はしばらく考え込んだ。「ああ!ええと・・・確か、千鶴ちゃんだったっけ」
そうだ、『千鶴』という名前だった。彗太は今思い出した。
「そう、その子。母さん、あいつが今何してるか知ってる?」
「えぇ?さあ・・・お母さんもあれから全然会ってないし・・・。ていうか、突然どうしたの?わざわざ電話してきて、そんな昔のこと聞くなんて」
彼女が怪訝そうに言うので、別に、と彗太は誤魔化した。彼も、なんとなく似ていると思っただけで、図書館で会った彼女が『鶴子』だという確信はないのだ。ましてや彼女は『ゆき』―おそらく名前だろう―と名乗っていた。他人の空似かもしれない。
「・・・まあ、いいけど。ところで彗太、ご飯ちゃんと食べてるの?何か送ってほしいものとかあったら送るけど」
「いや、いいよ」
「そう?じゃあ、お母さんそろそろ門馬に晩ご飯作んなきゃいけないから・・・」
「ん、じゃあまた」
たまには電話してきなさいよ、と母は電話を切る前に念を押した。
ツー、ツーと通話が切れた音を聞いて、彗太は携帯電話を置いた。そして、部屋の隅に立てかけてある父の絵を見た。大阪に越してくる際に実家から持ってきて、そのままそこに置きっぱなしになっていたのだ。白いキャンバスには、父が散歩がてらよく通っていたグラバー園の中の風景が描かれている。前景に描かれた蘇鉄の木で、彼はそれがグラバー邸の前だとわかった。
彗太は絵の中の風景に、十年前の自分と『鶴子』の姿を見た。彼女は今どこで、何をしているのだろうか。