トロイメライ
子どもたちは好き勝手に思い思いのことを言っている。門馬はかばんを持って、少し誇らしげに助手席から降りた。
「じゃあ、終わったら迎えに来るから。ここで待ち合わせな」
「うん」
弟を送り出して、彗太は運転席から懐かしい母校の校舎を見た。あの頃とちっとも変わっていないことに、彗太はなぜかほっとした。
家に帰って一人になると、彗太は急に眠気に襲われた。一時間半後にはまた門馬を迎えに行かなければならないのだが、あまりにも眠いので、彼は居間のソファーで仮眠を取ることにした。携帯電話のアラームを合わせてから、ソファーに身体を横たえ目を閉じると同時に、自分が一気に眠りに落ちていくのがわかった。
背中に違和感を感じて目を覚ますと、どこかで携帯電話がけたたましく鳴っていた。
「へ・・・?」
彗太は身体を起こした。枕元に置いたはずのそれは、いつの間にか彼の背中の下に潜りこんでいた。どうりでくすぐったかったはずだ。音と振動を止めようと思って、携帯電話を手に取り、液晶ディスプレイに表示されたデジタル時計を見ると、門馬との約束の時間をとうに過ぎていた。
「やべっ・・・寝過ごした」
彗太はソファーから飛び起きた。車のキーを取り、あわてて家を出ると、ちょうど門馬が学校から帰ってきたところだった。
「あ・・・」
弟の隣には大男がひとり立っていた。三十代後半ぐらいだろうか、がっしりした体格、短く切った髪に褐色の肌と、いかにも健康そうだった。彗太は直感で、それが誰なのかを察した。彼は彗太を見ると、人のよさそうな笑顔で笑った。
「あ、摂津の兄さんか?よかった、待ってもなかなか来んから、何かあったんじゃないかと心配してたんだ。一組の担任の河内いうもんです」
「あ・・・はい」
やっぱり男か、と彗太は思った。
「彗太ぁ、お前寝てただろ。頭に寝癖ついてんぞ」
門馬はまだ湿った髪のまま、彗太のところに走ってきた。
「プールが終わったあと、摂津がいつまでも校門前に立っとるもんだから、こりゃ日射病になってしまうと思って。そいけん連れて帰ってきたんだけど」
「それは、すいません」
彗太は頭を下げた。
「ほら門馬、お前も先生にお礼言わんか」
彗太が門馬にも頭を下げさせようとすると、河内は「よかよか」と言って笑った。
「そいじゃ、俺はそろそろ」
「じゃーなー、先生」
「あ、ちょっと待ってください」
彗太はそう言って、急いで家の中から土産物の入った袋を取ってきた。
「これ、つまらないものなんですけど」
彗太は例のたこ焼煎餅を河内に手渡した。ど派手なパッケージを前に、今更になって、これを選んだことを後悔した。
「あの、弟がいつもお世話になってるって、母から聞いて。その、よかったらもらっといてください」
「えぇ!?俺に!?」
河内はやや大げさに驚いた。
「うわぁ、ありがとう!こんなんもらえると思っとらんかった・・・嬉しいなぁ。大阪名物?へぇー、すごか、どうもありがとう!大事にする!」
「いやその、ほんとに大したものじゃないんで・・・」
河内の喜びぶりに、彗太は逆に戸惑ってしまった。その後も彼は何度も礼を述べて、坂道を走って去っていった。
「面白いだろ、河内先生」
門馬が嬉しそうに言った。彗太は弟の言葉に、ただ「ああ」と答えただけだった。あまりにも人がよさそうな人物だったので、彼はなんだか拍子抜けしてしまっていた。
その週末、仕事が休みの文野と門馬、さらに守の姉の市子を連れた合計四人で、彗太自身の運転する車に乗って、市郊外にある守の墓参りに出かけた。途中スーパーで供え物のお菓子と線香、ろうそく、花などを買って、燦々と照りつける太陽の中、再度車を走らせた。
「彗太ぁ、アイスー」
「あー、伯母さん、門馬にクーラーボックスからアイス取ってやって」
彗太は運転席から、後部座席に座る伯母の市子に頼んだ。同じく後部座席に座った門馬は、市子からさっきスーパーで買ったアイスクリームを受け取ると、おいしそうにそれを食べはじめた。
「こら、あんまりそう急いで食べるな。腹こわすぞ」
「まあまあ、いいじゃないの。こう暑いとすぐに溶けちゃうし」
彗太の言葉に、後ろで市子が苦笑した。彼女は甥の門馬に少し甘い。
「お義姉さん、門馬がアイス落とさないように見ててやってね」
助手席から文野が心配そうに言った。墓参りにもかかわらず、車内はむしろ遠足のような雰囲気に包まれていた。
あまり広くはない墓地の駐車場は、すでにほかの車でいっぱいだった。なんとか空いたスペースを見つけてそこに車を止め、四人は車外に出た。
「俺、水汲んでくるよ」
彗太がそう言うと、俺も行く、と門馬が後ろからついて来た。
「お墓にばしゃって水掛けるの、俺がやりたい」
「はいはい」
彗太は外の水道でバケツに水を汲み、弟に柄杓を持たせた。門馬はわかっていないのか、守の墓まで行く途中にも、柄杓を手に共同墓地の中を無邪気に走り回っていた。一方の彗太は、水の入った重いバケツを持ってその後を歩いた。日差しで頭がくらくらする。ここに来るのは何度目だろうか。免許を取る前はいつも伯母の車に乗せてもらっていたが、最近ではもっぱら自分で運転して来る。灰になった父が冷たい土の中に埋められた日、このあたりは雨が降っていた。あれから何年が経つのだろう。
「彗太ぁー、はやく来いよー」
先に摂津家の墓にたどり着いた門馬が、階段の上から彗太を呼んだ。文野と市子もいる。彗太はバケツを持って走った。
きれいに片付けられた守の墓を前に、四人は手を合わせた。この時ばかりは門馬も状況を察して、神妙そうな面持ちで目を閉じていた。彗太は心の中で、最近身の回りに起こったことを亡き父に報告した。大学のこと、寮のこと、それから千鶴――千のこと。彗太は、千とつるのことを他の誰にも話したことはなかった。千自身はそれについて特に何も言わないが、この件は一切他言無用なのだと彗太は感じていたし、自分たちの関係はそれで成り立っているのだと理解していた。
「彗太、もういい?」
かなり長い間そうしていたのか、文野が申し訳なさそうに彗太の肩を叩いた。門馬はすでに、伯母をつれてそのあたりを散策している。すると、その近くを、墓参りに来たのであろう十名ほどの家族連れが通りかかった。その中のひとりに、彗太は見覚えがあった。
「あら、お隣のおばあちゃんの・・・」
文野がつぶやいた。鶴ばあの娘もこちらに気がついたようで、遠くから軽く会釈をした。彼女のほかにも、その夫子どもや親戚と思しき人びとが集まっていた。きっとそのうちの何人かは、数年前鶴ばあの葬儀に参列した時に何らかの形で会っているのだろうが、喪主を務めた彼女の長男を除いて、彗太は誰一人として顔を覚えていなかった。その長男も彗太たちに気付くと、丁寧に頭を下げた。鶴ばあによく似た優しそうな人物で、もう五十をとうに過ぎたのだろう、頭には白いものが混じっていた。彗太はなんとなく千鶴の顔を思い出した。少し似ている気がする。親戚だからだろうか。
「じゃあ、お母さんたちももう行こうか」