トロイメライ
文野はそう言うと、夫の墓にもう一度手を合わせた。その時、彼女が彼に何を話したのか、彗太には見当もつかなかった。
精霊流しの日の夜、彗太は門馬を連れて街におりた。本当は文野も行きたがっていたのだが、大掛かりな行事ゆえ、怪我人に備えて病院で待機することになった。彗太は一方の手に藁のむしろに包んだ供え物を、もう一方の手に門馬の手を取って狭い坂道をおりた。
「人が多いから絶対に離れるなよ」
すでにそわそわしている門馬を、彗太は自分のほうにぐいと引き寄せた。
大学に入学した当時、他郷出身の友人らと話していて彗太は驚いたのだが、彼らの大半が精霊流しを夏祭りと思っているか、ないしは秋におこなわれる長崎くんちと混同していた。確かに、毎年これを見に長崎にやって来る観光客も多く、精霊船や爆竹の音は賑やかでとても騒がしいが、亡くなった人の冥福を祈るためのれっきとした仏教行事である。とはいっても彗太自身、その騒がしさの中にある悲しみに気付いたのは、父が死んだ後になってからだった。
「なーなー、彗太」門馬が彗太の手を引いた。「帰りにコンビニでアイス買ってもよか?」
「お前なぁ・・・」
まだ幼い門馬は父の死に実感がないのか、縁日か何かにでも行くように、無邪気にはしゃいでいた。彗太は「あとでな」と言って、できるだけ人の少ない道を選びながら川沿いの通りに出た。供物の収集所はいくつかあるが、彗太が来るのはいつもここである。最も人の集まる大波止よりましとはいえ、ここもかなり人が多い。弟が迷子にならないように、彗太はその手を握りなおした。
「あっ」
その時突然、門馬が視線の先に何かを見つけた。
「河内先生だ」
そう言うやいなや、彗太があれほど離れるなと言ったのに、門馬は勝手に彼の手をはなして、人ごみの中にひとりで走っていった。
「こらっ、門馬!」
彗太はあわててその後を追った。
「せんせー!」
「あれ、摂津」
河内はふたりの姿に気付くと、いくぶん驚いた顔を見せた。彼は容姿はいたって普通なのだが、とにかく体躯がいいので、暗いところでも文字通り頭一つ抜きん出ていた。門馬はその彼に駆け寄ると、いきなり横から飛びついた。
「すいません、弟が」
後から追ってきた彗太は、河内から門馬を引き剥がし、頭を下げた。
「はは、元気でよかよか。ところで摂津、ちゃんと宿題やっとるか?」
「はい、あとは作文だけで」
「何で彗太が答えると」
「いーだろ別に」
そんな兄弟を見ながら、河内は微笑ましそうな顔をした。彼もまた、大きな手に供物を包んだむしろを二つ持っていた。手元に注がれる彗太の視線に気付いたのか、河内は少し困った様子で言った。
「や、お恥ずかしながら、妻と子どもの分でね」
「あ・・・すんません」
彗太はぱっと目を逸らした。河内に妻子がいたとは知らなかった。そして、彼女らがもうこの世にいないということも。
「ええと、君らも?」
河内は、彗太が手に持っている供え物を指した。表情から察するに、守のことはもうどこかから聞いているのだろう。彗太は軽くうなずいた。話が難しくなってきたせいか、門馬はふたりから少し離れたところで、収集所に備えられた他の供物のほうに関心をやっていた。風は不思議と涼しく、遠くのほうからは爆竹が鳴り響く音が聞こえた。
「あの・・・失礼ですけど、奥さんたちはどうして・・・?」
彗太は訊いた。なぜか、自分にはそれを訊く権利があるような気がした。
「交通事故、かな。もう五年も前だけど」
河内は努めて明るく答えようとしていたが、その表情には暗い影が差していた。彗太はただ、そうですか、としか答えることができなかった。他に何も言えるはずがなかった。どんな同情の言葉や励ましの言葉をもらっても、死んだ人間はもう帰ってこないのだから。
(俺も、いつか死ぬのか?)
彗太は心の中で自問した。すぐ近くでも爆竹が鳴りはじめた。と同時に、場の空気が一挙に過熱した。しかし、彗太の心はそれとは反対に冷たくなっていった。
(俺が死ぬ?そんなわけないだろ)
誰かが答えた。そうだ、自分が死ぬはずはない。死んではいけない。生きなければならない。そう、父と約束したのだから。
「彗太ぁー、せんせー」
門馬がふたりを呼んだ。彗太は急に、周りの気温が二、三度上がったような気がして、逆に身震いがした。
河内と一緒に供物を収集所に置いて、彗太は手を合わせた。むしろには文野と相談して、絵筆と絵の具、それから砂糖菓子を包んだ。守ならきっと感激してくれるだろう。その横で、文野よりも少し若いぐらいの年頃の女がひとり、彗太と同じように供物を供えて手を合わせていた。
「・・・?」
どこかで見たような顔だった。しかし、どこだったのかさっぱり思い出せない。
「あの…何か?」
「あ、いや、何でもないっす」
視線に気付いた女が怪訝そうな顔でこっちを見たので、彗太はあわてて首を振った。彼女は少し不思議そうにしたが、すぐにまた暗い海に向かって手を合わせた。
背後のほうからは、爆竹の炸裂音とともに道路を練り歩く行列の声が聞こえた。海の彼方へ向かって吹く風に乗って、死者の魂がふたたびあの世へ帰っていく。
八月も半ば、梅雨ではじまった夏がもうすぐ終わろうとしていた。